秋の桜と書いてコスモスです。桜は、パッと咲いてサッと散る、という印象があります。
ところが春の桜と違って、秋を名残惜しむかのようにいつまでも咲いている花です。
本日も徳山では礼拝が行われました。
礼拝後には三色丼が振る舞われました。
今週、来週も以下の日程で 礼拝や集会が行われます。
いずれの集会、礼拝とも、どなたでもご自由にお越し頂けます。
10/25(火)徳山C聖書の学び
15:00~16:00
10/27(木)には、
益田にて、小浜礼拝13:00~
益田教会では 14:00~ 礼拝、
六日市礼拝 19:30~ です。
10/30(日)徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
本日の礼拝のメッセージです。
【ルカ福音書18章9-14節】
聖書には、自分を正しいと考えるファリサイ派の人が登場します。彼らはどうも、正しい生活をしていたようです。その当時定められた断食は、年6回すれば良かった。何と彼らは週2回したのです。献金は、特定の品物の1/10を捧げれば良かった。何と彼らは全収入の1/10献金をしたのです。だが彼らは、他者を侮蔑していました。よろしくないことです。
それでもファリサイ派は、他者を侮蔑することも正しいことと考えていたのです。一方で徴税人。彼らこそ嫌われ者でした。出しに挙げられている「奪い取る不正者」だったのです。この徴税人の自己理解はファリサイ派と逆でした。神殿の端で祈ります。義とされたのはこの徴税人と主は結びます。義とされた、とは赦しです。大丈夫、安心せよの思いです。
ファリサイ派は、自分で自分に安心しきっていました。だから、与えられた信仰を、自惚れと他者の侮蔑の祈りのために使うのです。果たしてこれが祈りかと首を傾げますが、祈りは祈りです。神さまは、こういう祈りも聞きます。聴かれない祈りは無いのです。一方この徴税人は、自分で自分の生き方が納得できなかったのでしょう。信仰をざんげのために使うのです。神さまは、この祈りも聞きます。神さまが、喜ぶ祈りはどちらでしょうか。
そしてこの徴税人の祈りは短いですね。だが主は、祈りの長短を問わず、祈る人の心を取り上げて下さいます。主は祈りの心をご存じなのです。なら私たちの祈りは不要か、違います。祈りとは呼吸です。祈りを欠けば私たちの信仰も無になります。それは寄る辺を無くすことです。この徴税人は寄る辺なき人生で信仰を寄る辺としたのです。私たちは今日、祈りの大切さを想起したい。主の祈りがあります。全部で無くとも一句でも良い。義とされるとは力を頂くこと。祈って下さい。すると、神さまからの力が与えられます