2016年11月1日火曜日

10/30 礼拝とメッセージ


 すでに今日は火曜日ですが、おとといの日曜日も礼拝が行われました。

 宗教改革を覚える礼拝で、大勢が集われました。

 礼拝後にはかす汁、小さい時は苦手だったのですが、今食べると本当においしい!

 今週、来週ともに礼拝や集会は以下の通りに行われます。

 いずれの集会、礼拝にもどなたでもご自由にお越し頂けます。

  11/1(火)徳山C聖書の学び
  15:00~16:00


 11/3(木)には、
       益田にて、小浜礼拝13:00~
       益田教会では 14:00~ 礼拝、 
        六日市礼拝 19:30~ です。
 11/6(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

本日の礼拝のメッセージです。



【ヨハネ福音書21322節】
今日の聖書の時期は、過越祭でした。神殿の境内では動物を祭儀用に販売していました。これは、神殿の貴重な収入源でした。主はその物売りの台を蹴散らすのです。なぜこういう乱暴に及んだか。それは、この祭りの意義と、物売りに代表される神殿の現状の在り方とに矛盾を感じたからなのです。収益事業や、商売の是非が問われてはないのです。

物売りは祭儀動物を売ります。何の祭儀か。赦し獲得の祭儀です。赦しを得るために、罪の分量に応じた動物を購入し、捧げることで赦しを獲得するという考えが根本にあったのです。一方で、この過越祭の元来の意義は、赦しが与えられることを覚えるときです。神殿本部の宗教者は、本来は無償の赦しに値を付けていた。そこに主は憤られたのです。

蹴散らされた商人たちの恐らく元締めユダヤ人は「しるし」を主に求めます。主は神殿破壊と、三日後の再建を言います。主のお気持ちとしては、神殿の建物や制度は壊れるけれど、捧げられたご自身の体は復活する。つまりもう、赦しを購入する制度は必要無いということです。元締めユダヤ人はそこまで理解が及んでいないでしょうが、主をあざ笑います。彼らが見ていたのは、建物としての神殿だけだった。現実的に神殿の建物は70年に破壊され、現在は「嘆きの壁」のみが残っています。一方、主は私たちと共に居られます。

主は、神さまの愛と赦しを取り戻す「改革者」でした。それはマルチン・ルターも同じでした。強欲で、自分の懐や自分の団体のうるおいのみを考える宗教者を、改革者たちは「蹴散らした」のです。主はこの後、またエルサレムに赴く。これ迄どれ程祭儀用動物が捧げられたでしょうか。主はその街で、何とご自身を捧げられたのです。主は全ての人の赦しのためにご自身を捧げられたのです。皆さんのすぐそばに、愛と赦しの主が居られます。