本日の礼拝献花です。可愛らしい花です。つぼみよ開けと思いますが、
この寒さでどうなるか…。
本日も徳山では礼拝が行われました。礼拝後にはポトフ(スペアリブ)という、
なんとも美味しい、かつ高カロリーなお料理を頂きました。
今週、来週ともに礼拝や集会は以下の通りに行われます。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもご自由にお越し頂けます。
11/15(火)徳山C聖書の学び
15:00~16:00
11/17(木)には、
益田にて、小浜礼拝13:00~
益田教会では 14:00~ 礼拝、
六日市礼拝 19:30~ です。
11/20(日)徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
本日の礼拝のメッセージです。
【ルカ福音書20章27-40節】
私たちは、イエスさまのお言葉を敬意をもって受け止めていますが、聖書の当時はどう見られたでしょうか。「問題児で監視」の扱いでした。エルサレムにはサドカイ派という、ユダヤ教の一派がいました。彼らは復活を否定するものでした。一方で主は以前に三度自身の復活を語ります。サドカイ派はそこに着目し、イエスさまとの対立姿勢を鮮明にするのです。
サドカイ派の意図は、復活の否定と、復活を公言する主を侮辱することでした。聖書の出来事への模範解答は、長男の権利を優先し長男の妻と答えることです。しかしそもそもサドカイ派も重んじる律法には、復活については未記載です。故に彼らは復活を否定するのです。肯定する立場の主に、律法への不敬と問題の煩雑さを提示するのです。対して主は復活の命を語ります。結婚という制度はなく、全ての人が神の子として生かされると語る。
復活の教義は2千年の神秘です。この2千年の間、復活した者は主の他にいませんが、それでも信じ続けてこられたのです。私たちは徐々に自身の終末に向かいます。聖書に依れば召天後、しばし休み、時満ちて世の終末の時に復活に至るのです。それを実証した者はいません。実証者はなくとも、希望はある。平たく言えば、私たちは、再会の望みを得つつ召されるか、全ての無を思いつつ召されるか。復活とは、希望に至るものです。