2016年11月13日日曜日

11/13 献花とメッセージ


 本日の礼拝献花です。可愛らしい花です。つぼみよ開けと思いますが、
 この寒さでどうなるか…。


 本日も徳山では礼拝が行われました。礼拝後にはポトフ(スペアリブ)という、
 なんとも美味しい、かつ高カロリーなお料理を頂きました。

 今週、来週ともに礼拝や集会は以下の通りに行われます。

 いずれの集会、礼拝にもどなたでもご自由にお越し頂けます。

 11/15(火)徳山C聖書の学び
  15:00~16:00


 11/17(木)には、
       益田にて、小浜礼拝13:00~
       益田教会では 14:00~ 礼拝、 
        六日市礼拝 19:30~ です。
 11/20(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

本日の礼拝のメッセージです。



【ルカ福音書202740節】
私たちは、イエスさまのお言葉を敬意をもって受け止めていますが、聖書の当時はどう見られたでしょうか。「問題児で監視」の扱いでした。エルサレムにはサドカイ派という、ユダヤ教の一派がいました。彼らは復活を否定するものでした。一方で主は以前に三度自身の復活を語ります。サドカイ派はそこに着目し、イエスさまとの対立姿勢を鮮明にするのです。

サドカイ派の意図は、復活の否定と、復活を公言する主を侮辱することでした。聖書の出来事への模範解答は、長男の権利を優先し長男の妻と答えることです。しかしそもそもサドカイ派も重んじる律法には、復活については未記載です。故に彼らは復活を否定するのです。肯定する立場の主に、律法への不敬と問題の煩雑さを提示するのです。対して主は復活の命を語ります。結婚という制度はなく、全ての人が神の子として生かされると語る。

復活の教義は2千年の神秘です。この2千年の間、復活した者は主の他にいませんが、それでも信じ続けてこられたのです。私たちは徐々に自身の終末に向かいます。聖書に依れば召天後、しばし休み、時満ちて世の終末の時に復活に至るのです。それを実証した者はいません。実証者はなくとも、希望はある。平たく言えば、私たちは、再会の望みを得つつ召されるか、全ての無を思いつつ召されるか。復活とは、希望に至るものです。

私たちはその主に結ばれているのです。復活は召天に至る私たちへの希望です。主はモーセの故事を語ります。これは出エジプト記3章からです。立派な指導者モーセは若年時、優柔不断で職務から逃亡の思いを抱いていました。そんな彼に神さまは、生きている神であると告げ、旅の最終地までを導くのです。私たちの地上の生涯の旅は続くのです。私たちは、全ては神によって生きる、ということを思いつつ、日ごとの生を感謝して過ごしたい。