2017年5月28日日曜日

5/28 礼拝と献花と小浜海岸

 5/27 の益田市小浜海岸です。
本日は風が強く、満潮だったため海岸線が荒れています。

  いつもは登れる岩も、本日は到達不能でした。

徳山の本日の献花です。
 素敵な色合いですね。

 昨日は益田、六日市で、本日は徳山で礼拝が行われました。
 いずれの礼拝にも大勢が集われ、祝福を実感した一日でした。

 今週、来週の教会行事は以下の通りとなります。

 
5/30(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。



5/27(土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

5/28(日)10:45 徳山 礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【ルカ福音書2444-53節】
復活後の聖書日課の特徴は、「主が、不甲斐ない弟子たちを用いる」です。復活後の主と弟子たちの姿は、各福音書で違います。このルカ福音書では、主はペトロやクレオパ、無記名の弟子たちに現れています。それでも弟子たちは、会っているはずの主を亡霊と見做してしまう。主は手足を見せ(傷を見せ)、魚を食べて生者であることを証するのです。

そして続いて、弟子たちを「証し人」にするのです。主の出来事を述べる者です。でも、その過程には弟子たちの不作為も含まれます。主はその不作為をどう弟子たちに受け止めさせるのか。ここで「心の目を開く(45)」の言葉が大切です。主は弟子たちの「不作為」をも用いて、神さまのみ旨を為しました。そのことを悟らせるため、主は弟子たちの眼を開いたのです。「万事を益となさる」主の姿が記載されているのです。

それは、その後の描写にも鮮明に表れます。主は弟子たちを「ベタニアの辺りまで」伴い、祝福されました。ルカ福音書で「ベタニアの辺り」とは、どのような場所だったか。それは主がロバの子を求められた箇所です。勇ましい馬でなく、頑丈なロバでなく、ロバの子を選ばれた。乗り物の中で最も弱く、小さいものを選ばれた。弟子たちは、自分の弱さや小ささを越えて主が用いられる確信に、ベタニアでの祝福でようやく立てたのでしょう。

 ベタニアを去った弟子たちは、自分たちの群れだけで神殿に向かいます。敵対者たちの巣窟で、怖くはなかったのでしょうか。怖いという感情以上に、弟子たちには行いたいことがあったのです。それは「神をほめたたえる」ということでした。原語では「感謝」です。神さまに感謝するその姿勢が、敵対者たちの牙を自然に納めさせることになったのです。「感謝」生、それは私たちにも出来ることでしょう。私たちは、何に感謝出来るか。探すまでもなく、身近な一つ一つを見出して下さい。主に生かされている者として。
 


2017年5月21日日曜日

5/21 礼拝と献花

本日の献花です。復活を象徴する百合の花が、この春、心臓手術を経て
 礼拝に出席されている姉妹によって捧げられました。

こちらはゴーヤ。仮植え状態ですが、今後緑のカーテンとなる予定です。

 本日は多用の兄弟姉妹が多かったのですが、それでも礼拝は行われました。
 
今週の教会の行事は 以下の通りです。

5/23(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。



5/27(土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

5/28(日)10:45 徳山 礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【ヨハネ福音書1415-21節】
良い人との出会いは、私たちの人生をより良くさせるものです。主と出会えたことは、主の弟子となった人たちに幸いでした。それは主が、真摯に向き合い、大切にし、信頼する方だったからです。迷いが多い弟子たち。主はそのような弟子たちの迷いを見越し信頼します。それが今日の聖書に現れています。「心騒ぐ」弟子たちに確かさを与えます。

この箇所が、弟子のユダの退出とペトロの強がりの後に発せられたことが大切です。主はそのような弟子たちに「かの日」への思いを抱かせます。目前の不安のみに人は心奪われます。弟子たちがそうです。そのような中「かの日」には「みなしごでなく(18)」、「神と主と一つになれる(20)」との約束が為されます。「弟子集団の瓦解」が弟子たちの直近の不安要素です。弟子たちの不安要素への適切な言葉を主は言うのです。「あなた方は私を見る」復活後、確かにその通り。「あなた方は霊を知る」導きを弟子たちは知ります。

宗教改革の教会に私たちは籍を置いています。宗教改革者たちが熱心に主張したことは、「神さまの恵みは全てに先立つ」ことでした。宗教改革者たちがそうでした。弟子たちは主に信頼され、先だって頂いた愛によって活動しました。私たちはどうか。神さまや主の導きを感じることが出来るか。今、気付かなくても後々気付くこともあります。

冒頭「私の掟」という言葉がありました。これは1334の「新しい掟」です。「互いに愛し合いなさい」です。最古の日本語翻訳聖書はその「愛」を「大切にされる」と訳しました。「愛される経験」とは「大切にされた経験」です。だれもがそんな経験を持つでしょう。それは神さまがその人を通して働いて下さった証拠です。「良い人との出会い」とは、偶然の産物でなく、神さまが生きて私たちに働いて下さっている証しなのです。
 


2017年5月14日日曜日

5/14 礼拝と献花と奉仕作業

  5/13 益田小浜海岸の海です。
 山陰の寒村の海は、透明度が高いです・・・が、
 写真には映せない、海岸のゴミもあります。
 対岸の国家の文字と思しきゴミもあります。

  午後、柳井Cの信徒が長年関わる「一粒の麦」25周年記念コンサートが
 柳井で行われました。そのお働きに心から感謝の念を抱きます。

徳山献花は、写真撮影が夜になりました。
カーネーション・・・母の日なのです。

今週の教会の行事は 以下の通りです。

5/16(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。



5/18(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

5/20(土)水原牧師 大阪出張

5/21(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【ヨハネ福音書141-6節】
「私は道であり、真理であり、命である」。ヨハネ福音書ではこのような断言調の主の言葉が目立ちます。「ご自身が弟子たちを神さまのもとに導く道であること、律法のがんじがらめの規定でなく自由に生きる真理を与える事、永遠の命に至らせる者であること」をお伝えになるのです。それが、ユダの離反とペトロの不確かな心の表出後に発せられたお言葉であることにも注目です。弟子たちの状況がどうであれ、主は弟子たちを導くのです。

愛の表出は弟子トマスの言葉が切欠です。本日の聖書でも彼は「分からない、知らない」と言います。安易妥協せず納得を欲するのです。納得できない事実があったのです。人間とは、目前に苦難があれば避けるか退けるかが当然でしょう。だが苦難を受けようとする主に、tマスは当惑するのです。主はご自身を信ぜよと言いますが、トマスにとって主の行為が人知から離れているため、ここでは信じるに不足の彼です。「心が自然と騒ぐ」のです。

トマスに対し、主は懇切丁寧な説明は避けます。「私が道、真理、命」と、ぶっきら棒な答えに見えますね。しかしここに主の意図が明らかです。主は「命」の言葉を使い分けています。一過性の命プシュケ、永続性の命はゾエ。ここでは「永遠の命」を意味する言葉が用いられているのです。主の真意をトマスは掴めません。そのままの思いで良しとされています

私たちもトマスと同様に、主の死と復活の意味や、「永遠の命」の教えを万全に知り、納得している訳ではありません。今はそれでも良い。でも最期の時「永遠の無」に旅立つか「永遠の命」に旅立つか、どちらが希望あるものか。或いは、近しい人を見送る時、「やがて会えます、行くまで待っていて下さい」との思いか、「もう会えない」の思いか、どちらが良いものをもたらすでしょうか。「道、真理、命」である主が先導する生を送りましょう。