6/1(月)台風が来る前に、じゃがいもを収穫。
おおつぶの雨が降って来たので、早々に切り上げました。なかなか良いサイズ。
6/3(水)ホタルブクロ。
リアルなホタルも、六日市でも出始めたとのことです。
ご葬儀は防府市斎場で、キリスト教式にて行われました。101歳でした。
落款の文字は、おそらく「汀 静」詩編23編の世界観と思います。
冒頭のお写真、下の段の左から2番目の方でした。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
6/3 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝
6/6 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
6/10 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝です。
6/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
6/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
5/31(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
三位一体主日 説教
創世記1章1節-5節 「混沌は残る、神も残る」
水原一郎
① 創世記1章1節には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。けれども、その直後に語られるのは、「混沌」「闇」「深淵」です。創造の最初に現れるのは、完成された世界ではありません。形の定まらない混沌です。創世記という書物は、いつ頃書かれ、編集された書物でしょうか。それは「バビロン捕囚」という、ユダヤの人々にとっての「混乱と喪失の時代」に編まれたものです。そのことを思えば、この書かれ方は現実的です。故郷を失い、将来も見えず、「神はどこにおられるのか」と問わざるを得なかった人々がいるのです。その人々に対して、聖書はまず、「混沌があった」という事実から語り始めます。信仰とは、混沌が消えた世界を生きることではありません。
② 「神がおられるなら、なぜ闇があるのか」。これは捕囚の民だけでなく、私たち自身も抱える問いです。創世記は、この問いを避けません。神が創造を始められた時にも、闇と深淵は残っていました。大切なことは「混沌がある」ことを踏まえた上で、その混沌の上に何があるかです。聖書は、「神の霊が水の面を覆っていた」と語ります。神は、混沌を見捨てておられませんでした。混沌を直ちに消し去るのではなく、その上を覆うように臨在しておられたのです。そして神は語られます。「光あれ」。神の言葉は、すべてを一瞬で整え尽くす命令ではありません。しかし、闇の中に光が置かれました。そして神はそれを見て、「良し」と言われたのです。
③ この創世記の言葉は、やがて預言者イザヤの言葉へとつながっていきます。「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」。そしてその預言の中に、ご自身を重ねるようにして、主イエスはこの世に来られました。主イエスは、整えられた世界に来られたのではありません。政治も宗教も混乱し、人々が不安と恐れを抱える世界に来られます。そして主イエスは、混沌を外から眺められたのではなく、十字架において、その闇と絶望を負われました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた主は、人間の混沌の最も深い場所に入られました。父が遣わし、子がその混沌を担い、霊がその上を覆う。三位一体の神は、混沌の中で、ご自身を現されるのです。
④ このことは、私たちの現実にも重なります。たとえば、介護や看病が続いている方がおられるかもしれません。先が見えず、祈っても何も変わらないように感じる日々です。「神がおられるなら、なぜこの混沌は終わらないのか」と思わずにはいられない。その現実は、信仰が弱いから起きているのではありません。創世記が語るように、神の創造の始まりにも混沌はありました。そしてその上を、神の霊が覆っていました。さらに主イエスご自身が、その混沌を十字架で担われました。ですから私たちは、「混沌がある」という事実によって、神の不在を結論づける必要はないのです。
⑤ 私たちの人生から、混沌そのものが完全に消えるわけではありません。理解できない出来事、整理できない感情、先の見えない不安があります。しかし三位一体主日が告げるのは、「混沌は消えた」という知らせではありません。その上を、今も父と子と聖霊の神が覆っておられるという福音です。私たちは、「混沌」の中で「光あれ」と言われる神さまの言葉を聞くのです。そして、神さまの「良し」という祝福を受けながら生きることが許されています。父と子と聖霊の神が、今日も私たちを包んでおられるのです。私たちはそのことに信頼し、この一週間を歩む群れとされているのです。
創世記は、「初めに、神は天地を創造された」と語ります。しかし直後に現れるのは、「混沌」と「闇」と「深淵」です。この書は、バビロン捕囚という混乱と喪失の時代に編まれました。故郷を失い、「神はどこにおられるのか」と問う人々に対し、聖書はまず、「混沌があった」という現実から語り始めるのです。信仰とは、混沌の消えた世界を生きることではありません。






