6/23(火) 本格的な梅雨空となった朝、礼拝堂。徳山チャペルです。
6/21(日) 防府礼拝所。お体の不調を覚えておられる方々を覚え、祈りました。
6/20(土) 柳井礼拝所。ケイトウの花がこの時期らしいです。
6/17(水)一枚後と順序が逆になりましたが、アジサイの生け花の水。
良く見ると、炭酸が見えます。こちらは、井戸水とのこと。
六日市には温泉があり、その源泉が混ざっているとのことです。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
6/24 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
6/27 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
7/1 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
7/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
7/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会となります。
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
6/21(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第3主日 説教
マタイ福音書10章26節-31節 「恐れは、最後ではない」
水原一郎
① 本日読まれましたマタイ福音書では、「恐れるな」という言葉が三度、登場いたします。これは、主イエスが弟子たちを派遣された直後の場面です。主イエスは、弟子たちを派遣したとき、祝福だけを語りません。主イエスは、拒絶、誤解、告発、さらには命の危険さえも予告されたのです。だから、弟子たちに「恐れ」が起こります。家族や共同体から切り離される恐れ、自分の言葉が嘲笑される恐れ、信仰が無力に見える恐れ。その只中で、主は三度、「恐れるな」と語られたのです。
② 主イエスは、「覆われているものは現される」と言われます。弟子たちに委ねられた福音は、「天の国は近づいた」という知らせでした。神が遠くにおられるのではなく、近づいて来られた。その出来事が、つまり神の憐れみが、主イエスにおいて現されたのです。今は隠されているように見えても、神のなさることは必ず明らかになる、と。だから弟子たちは、恐れの中でも、この福音を隠さず語るように招かれているのです。
③ 続いて主イエスは、「体を殺しても魂を殺せない者どもを恐れるな」と語られます。この言葉は決して軽い言葉ではありません。私たちは、この言葉を聞くとき、「人を恐れるなと言われても、実際には怖いではないか」と思います。拒絶されることも怖い。病気も怖い。死も怖い。信仰者だから恐れなくなるわけではありません。実際、教会の歴史には勇敢な殉教者たちがいました。しかしその一方で、迫害の中で信仰を守り切れなかった人々もいました。日本のキリシタン史にも、そのような人々の姿を見ることができます。そしてその弱さは、決して他人事ではありません。聖書もまた、主イエスを三度否認したペトロを隠しません。だから主イエスの「恐れるな」とは、「恐怖を感じるな」という命令ではありません。そうではなく、「人間の力を最後のものとするな」という招きです。人は確かに傷つけることができます。しかし人間の力が最後の言葉ではありません。最後に立っておられるのは神です。そして、この言葉を語られた主イエスご自身が、十字架へ向かわれました。ゲツセマネで苦しみ、十字架で「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。しかし父なる神は、その方を死に閉じ込められませんでした。復活は、人間の力が最後ではなかったことを示しています。
④ 主イエスは続けて、雀一羽の話をされます。「雀一羽さえ、父の御心なしには地に落ちない」。さらに、「あなたがたの髪の毛までも数えられている」と言われました。ここで主イエスは、終わりの日の話だけをしておられるのではありません。「最後には真実が明らかになる」。それは大きな慰めです。しかし弟子たちが苦しんでいるのは、今この時です。だから主イエスは、雀と髪の毛の話をされます。神は、遠い終末の日だけを支配しておられる方ではありません。今ここで震えている弟子たちをも見ておられる方です。雀のように小さな存在も見失われません。髪の毛一本さえ数えられています。
⑤ 私たちは人生の中で、大きな奇跡や劇的な出来事によって神と出会うこともあります。しかし振り返れば、本当に支えられていたのは、弱さの中で守られたこと、苦しみの中で見捨てられなかったこと、気づかぬうちに導かれていたことではないでしょうか。主イエスは、「恐れるな」と言われます。根拠は、私たちの強さではありません。雀一羽を見失わず、私たちの髪の毛までも数えておられる父なる神がおられるからです。恐れは現実であっても、最後ではありません。復活の主が生きておられるからです。




