6/27(土) 厚狭教会礼拝後。
宣教師の方から教わったというクッキーを頂きました。
くしくも、今週がその方の召天記念日。阿野メリアン宣教師。
年に一度の講壇交換。とても有意義なひと時でした。
6/28(日) 下関教会礼拝。今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
7/1 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝となりました。
7/4 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
7/8 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
7/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
7/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
6/28(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第3主日 説教
マタイ福音書10章40節-42節 「いのちの水を頂く、そして差し出す」
水原一郎
① 本日、私たちはマタイ福音書10章の結びを読んでいます。主イエスは弟子たちを「失われた羊たち」のもとへ遣わされます。しかしその派遣は、成功だけを約束するものではありませんでした。人々から拒まれること、また分裂も予告されています。そのただ中で主イエスは言われます。「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れる」と。ここで示されているのは、弟子たちの働きの背後に、主イエス御自身が立っておられるという事実です。弟子が訪れることは、主イエスが訪れることでもあるのです。だから、ここで弟子を迎える家は、主イエスを迎える家となるのです。
② その主イエスは、「小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われます。水一杯。これが意味するものは何でしょうか。当時の「水を取りに行く労働(ヨハネ4章)」を考えることもできます。家の水がめ(ヨハネ2章)から取ることも考えられます。「水を差しだす」働きの背後には、ねぎらいがあります。「この人を受け入れよう」とする思いがあります。それは例えば、誰かのために時間を使うこと、席を空けること。言葉に耳を傾けること。疲れている人を覚えて祈ること。そのような交わりの中に、主イエス御自身が共にいてくださるのです。神の国は、大きな力や業績によってではなく、この小さな受け入れの中に始まっていくのです。
③ なぜ主イエスは、そのような「水一杯」を尊ばれるのでしょうか。それは、主イエス御自身が渇きを負われた方だからです。やがて十字架の上で、「わたしは渇く」と言われます。拒絶と孤独の中に立たれた方です。その渇きを引き受けて、主イエスは、命の水を与える方となられました。御自身の苦しみを通して、他者を生かす方となられたのです。だから主イエスは「水一杯の働き」を軽んじられません。そこにあるのは、人を生かそうとする神の憐れみそのものです。私たちはまず、その命の水を受ける者です。
④ では、私たちにとって「水一杯を与えること」とは何でしょうか。それは、特別に大きなことではありません。忙しさの中でも、誰かの話に耳を傾けること。祈りを求められた人を覚えること。教会に集う群れであり続けること。そのような小さな歩みです。しかし時に私たちは、水を差し出す側ではなく、受け取る側にもなります。「水一杯を求めること」とは何でしょうか。助けを求めること、祈ってもらうこと、自分の弱さを神さまの前に差し出すこと。それもまた、主イエスを迎え入れることなのです。私たちは、与える時にも、受ける時にも、主イエスの憐れみの中に生かされています。
⑤ もちろん、人々の間では、全てが受け入れられるわけではありません。主イエスは、受け入れられない時には足のほこりを払い落として去れ、と言われました。拒絶は現実です。しかしここで重要なのは、結果ではありません。受け入れられなくても、水一杯は失われないという約束です。既に水一杯を通して、主イエスに結ばれています。だから私たちは焦らなくてよいのです。大きな実りを作ろうとして力むのではなく、今日与えられている場所で、小さな水を差し出し、また受け取りながら歩みましょう。礼拝の後、誰かの話に耳を傾けること。あるいは誰かに一週間のことを分かち合うこと、家庭や職場で、語られた言葉を祈りのうちに受け止めること。祈ってもらうこと。その小さな歩みの中に、すでに主イエスが喜ばれる「水一杯の愛」は始まっているのです。神は、私たちが誰かに求め、差し出す、その愛をいつまでも覚えてくださいます。





