2026年4月21日火曜日

4/15六日市の葉桜、4/18柳井のボタン、4/19防府のユリ、4/21徳山のジャガイモ

 

 4/20(月)徳山礼拝所に植えたジャガイモの手入れをしました。

 芽カキしたものは、脇に植えました。そのうちシャンとするでしょう。

 4/19(月)防府礼拝所のユリ。大変に良い香りです。
 4/18(土)柳井礼拝所の一角に植えてあるボタン。

 ことしも大輪の花を咲かせました。

 4/15(水)会員さんをお見舞いした後に、葉桜を見ました。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/22 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/25 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/29 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。

5/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/19(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


復活節3主日 説教 

ルカ福音書2413-28節 「失望の道が、喜びの道へ」

水原一郎

① ある日の午後、二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩いていました。彼らの足取りは重く、表情には疲れがにじんでいました。歩きながら、彼らは語り合っていました。この数日、何が起こったのか。なぜ、あんなことになったのか。愛する主が十字架で命を落とされたことです。残るのは、痛みと、空しさ、そして自分への悔しさです。都を離れる背中は、「終わった」「これ以上、留まる理由がない」と語っているようでした。


② そんな彼らのそばに、ひとりの旅人が近づきます。そして、何事もなかったかのように問いかけます。「あなたたちは、道々、何を話しているのですか。」弟子たちは立ち止まり、うつむいたまま答えます。「あの都で起きたことを、あなたは知らないのですか。」彼らは語ります。イエスという方がどれほど力ある方であったか。どれほど希望を託していたか。しかし、その方が捕らえられ、十字架につけられてしまったこと。墓が空だったという知らせも聞いたけれど、何も分からないままだということを。彼らは事実を語ることはできました。しかし、そこからの希望は、もう持っていなかったのです。


③ そのとき、旅人は語り始めます。モーセの律法から預言書に至るまで、聖書全体を開きながら、こう語るのです。「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入ることになっていたのではないか。」そのとき彼らは、まだ知りませんでした。今、自分たちに語っているのが、復活の主ご自身であることを。しかし、だからこそその言葉は、彼らの心の奥に触れていきました。「苦しみは栄光に」と言われるその言葉を通して、「この苦しみも、見捨てられた出来事ではなかったのかもしれない」と。そうして、固く閉ざされていた心が、少しずつほどけていったのです。後に彼らは振り返って言います。「道でお話しくださったとき、聖書を解き明かしてくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」そのときには分からなかった。分からないことがあった。けれど確かに、主は共に歩き、語り、心に火をともしておられた。主は、分かってから近づかれるのではありません。分からないまま歩く者と、同じ速さで、同じ道を歩かれるお方なのです。


④ 私たちもまた、「分からない」という道を歩くものでしょう。ことに迷うとき、祈っても答えが返ってこないように思えるとき。「自分は間違った道を選んでしまったのではないか」と思うとき。信仰に確信が持てず、現実に押し流されるように歩いているときです。エマオへの道は、本来、弟子たちが向かうべき道ではありませんでした。これはいわば、「都落ち」と言える表現です。失望のあまり、都を離れ、使命から背を向けた道でした。それでも、その道が無意味な道にはなりませんでした。それは、どんな道であっても主が共に歩まれたから。主は、私たちの選びをすべて、正しいものにしてくださるお方ではありません。しかしそれが、たとえ誤りの道、遠回りを含む道であっても、そこに共に立ち、語り、立ち上がる力を備えてくださるお方です。私たちが気づかなくても、信仰に確信が持てなくても、主は離れず、同じ速さで歩き続けておられるのです。


⑤ 今、私たちが歩いている道も、エマオへの道のように見えるかもしれません。しかし、その道が主と共に歩まれるなら、そこは復活の道となります。後になって、振り返る日が来るでしょう。「あのとき、主は共におられた」「心は燃えていた」と。この復活の主が、今日も私たちと共に歩んでおられます。気づかれなくても、名指されなくても、主は歩みをやめられません。この主と共に、私たちは今日も歩み続けます。アーメン。


2026年4月14日火曜日

4/8 病院の桜2 4/12徳山の芝桜、ヤマボウシ、防府、4/13徳山

 

 4/13(月) 久しぶりに、電動バリカンでブナの木をきれいにしました。

 きれいにし過ぎ…と、剪定後はいつも思います。

 4/12(日)防府礼拝所。ゆりもまた、良い香りです。
 4/12(日)徳山礼拝所の道路側。この右側にブナがあります。

 芝桜、ヤマボウシが春の装いをば。

 4/8(水)会員さんをお見舞いした後の、六日市の桜。

 そろそろ葉桜に。4/15(水)はいかがでしょうか。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/15 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/18 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/22 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/12(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

復活節1主日 説教 

ヨハネ福音書2019-23節 「その日、部屋は変わった」

水原一郎

① 主の復活の日の夕べ、弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。弟子たちの心を支配していたのは、「ユダヤ人を恐れて」という理由が語っています。つまり、外側からの脅威でした。けれども、ただそれだけだったでしょうか。弟子たちの内には、もっと深い不安があったと思われます。それは、主イエスを裏切ってしまったという 自責、そしてあの十字架の死によりすべてが終わったという失望でした。それらを作り出した自分への失望。この夜、戸を閉じていたのは、外の世界への扉。自分たちの未来への希望の道。あるいは神さまへの信頼に至る心の扉だったのかもしれません。


② そんな彼らのただ中に、主イエスは現れます。「戸には鍵がかけられていた」と強調されているにもかかわらず、主イエスはそこに立たれたのです。しかも主イエスは、まず言葉と共に、「手とわき腹をお見せになった」と記されています。弟子たちはこのとき、十字架の現実と復活の現実、両方に同時に出会いました。傷を負われたお方が、死を超えて共におられる。そこに、彼らは慰めと平安を受け取ったのです。主イエスは言われます。「あなたがたに平和があるように。」これは単なる再会のあいさつではありません。主イエスのお気持ちはこうです。「もう大丈夫だよ」。弟子たちが失っていた、取り戻せないと思っていた関係と使命とを、主ご自身が回復される言葉でした。続けて、主はこう言われます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主イエスの平和は、再び歩み出すために与えられるものなのです。


③ 続いて、主イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。」ここで思い起こされるのは、創世記2章です。神が人を形づくり、命の息を吹き込まれた場面です。ここで弟子たちは、いわば「新しい創造」に与りました。恐れと失望の中で、使命を失っていた者たちに、再び命の息が吹き込まれたのです。それは、分かりやすい形では、個々人の心の回復を起こしました。その回復は、主イエスによって、弟子たちを再び世へと向かわせる命の息により起こされます。赦しの言葉が語られるのも、この派遣と無関係ではありません。赦しは、交わりを守る教えでも、また壊れやすい世界へと踏み出す力でもあります。聖霊は、その歩みを支える神の力なのです。


④ 私たちは今、この弟子たちの交わりの延長に生きています。教会とは、閉ざされた扉の中にさえ、キリストが入ってこられ、息吹を与え、新しい交わりを形づくられる場所です。完璧な人間たちが集う場ではありません。裏切りも、恐れも、傷もある。しかしそれらを超えて、キリストの平和と赦しが中心に据えられている。それが、教会です。


⑤ 「その日、部屋は変わった」と言ってよいでしょう。鍵のかかった空間が、神の霊が吹き込まれる場とされました。恐れと沈黙に満ちていた場所が、平和と派遣の始まる場所とされたのです。この礼拝もまた、同じ出来事の延長にあります。私たちは、ただ慰められるためにここに集っているのではありません。平和を受け取り、赦しに生かされ、再び世へと遣わされていくために、ここに集められています。主は今日も、私たちのただ中に立って言われます。「あなたがたに平和があるように。」そして、「わたしはあなたがたを遣わす」と。そのとき、私たちの閉ざされた部屋は、再び開かれます。恐れの場所は、希望の出発点へと変えられるのです。この復活の主と共に、私たちは新しい週へと遣わされていきます。アーメン。


2026年4月7日火曜日

4/1六日市イースターエッグ、4/1病院の桜、4/4柳井、4/5防府、4/6笠戸の桜

 

4/4(日)防府礼拝所のイースター。

奥には、徳山礼拝所の方が新調してくださった牧師用アルバがあります。

4/3(土)柳井礼拝所のイースター。み言葉カード、イースタークッキー、エッグです。
4/1(水)会員をお見舞いした病院で撮った桜。
4/1(水)六日市礼拝所の方から頂いた、子ども用のイースターエッグ。

中は…。

4/6(月)笠戸島に行きました。桜は満開。貝殻拾いをしました。
その直前には全力で鬼ごっこ。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/8 水曜日 16時 六日市チャペル イースター礼拝 

4/11 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/15 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/5(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

復活祭 説教 

マタイ福音書281-10節 「道の途中で、おはよう」

水原一郎

① 主イエスの復活を祝うイースターの朝、私たちはマタイ福音書28章を読みます。しかし、この物語は、喜びに満ちた場面として始まってはいません。「安息日が終わって、…マグダラのマリアと、もう一人のマリアが墓を見に行った(1節)」とあります。彼女たちは「復活を見に来た」のではありません。ただ、「墓を見に来た」のです。そこには、主イエスへの期待も、復活の確信も記されていません。ほかの福音書が語るような、主の体を整える香料さえ、マタイは記していません。主イエスを追憶をする気持ちはあっても、道具まで気が向かないのです。描かれているのは、「何もない」姿です。悲しみの中で、現実の前に立ち尽くしている、二人の姿をマタイ福音書は描きます。


② ここに、マタイ福音書の大切な視点があります。神さまの出来事は、人間の側の理解や期待を越えて起こされる、ということです。このことは、すでに十字架の場面で示されていました。主イエスを処刑する側にいた百人隊長は、主イエスを正しく評価する立場の人間ではありませんでした。信仰告白など、最初から予定されていない人物です。ところが、地震と十字架の出来事を目の当たりにしたとき、彼は思わずこう言います。「本当に、この人は神の子であった」と。これは、準備された告白ではありません。考え抜かれた言葉でもありません。思わず口をついて出た告白です。女性たちも、百人隊長も、共通しています。正しく理解し、期待していたわけではなかったのです。


③ それでも、神さまの出来事に遭遇したとき、言葉が生まれ、歩みが始まりました。墓の前で天使の言葉を聞いた女たちは、「恐れつつも、大いに喜んで」走り出します。恐れは消えず、気持ちも整理されません。揺れ動く心のまま、走り出したのです。すると、マタイはこう記します。「イエスが行く手に立っておられた」。主イエスは、墓の前で待っておられたのでも、信仰が整うのを待たれたのでもありません。女性たちが走り出したその途上で、待っておられたのです。主イエスの復活は、死がなお支配していると思われたこの世界において、神が新しいいのちを開始された出来事でした。


④ そのとき、主イエスが最初に語られた言葉は、荘厳な復活宣言ではありませんでした。「おはよう」。ギリシア語では「カイレーテ」。日常の挨拶の言葉です。「喜びなさい」や「嬉しいね」とも受け取れる、温度のある言葉です。主イエスは、その意味を説明されません。ただ、この言葉を語られます。それは、「出会えてうれしい」という、人と人との関係を回復する言葉です。死によって断たれた関係が、再び始まることを告げる言葉です。やがて弟子たちとの関係も回復していく、その確信を含んだ言葉です。


⑤ 私たちは、信じ切れないまま、礼拝に座っていることがあります。そして一週間を過ごします。それでも、主はその只中で、言葉をかけてくださいます。復活とは、私たちの信仰が完成した証ではありません。信じ切れないまま、「恐れつつ、走り続ける」一週間の現実の途上に、主イエスが立って下さっている出来事です。そしてそのとき、思わず口をついて出る言葉や、思いがけない出会いが、私たちの信仰を始めていくのです。主は今日も、またこの一週間の朝、私たちが朝起きる時に、私たちの人生の途上で、こう語りかけておられます。「おはよう」。私たちの中には「何もない」日々があったとしても、主イエスの声は届きます。私たちはそこから、新しい歩みを始めるものなのです。