4/20(月)徳山礼拝所に植えたジャガイモの手入れをしました。
芽カキしたものは、脇に植えました。そのうちシャンとするでしょう。
4/18(土)柳井礼拝所の一角に植えてあるボタン。
ことしも大輪の花を咲かせました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
4/22 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝
4/25 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
4/29 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。
5/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
5/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
4/19(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
復活節3主日 説教
ルカ福音書24章13節-28節 「失望の道が、喜びの道へ」
水原一郎
① ある日の午後、二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩いていました。彼らの足取りは重く、表情には疲れがにじんでいました。歩きながら、彼らは語り合っていました。この数日、何が起こったのか。なぜ、あんなことになったのか。愛する主が十字架で命を落とされたことです。残るのは、痛みと、空しさ、そして自分への悔しさです。都を離れる背中は、「終わった」「これ以上、留まる理由がない」と語っているようでした。
② そんな彼らのそばに、ひとりの旅人が近づきます。そして、何事もなかったかのように問いかけます。「あなたたちは、道々、何を話しているのですか。」弟子たちは立ち止まり、うつむいたまま答えます。「あの都で起きたことを、あなたは知らないのですか。」彼らは語ります。イエスという方がどれほど力ある方であったか。どれほど希望を託していたか。しかし、その方が捕らえられ、十字架につけられてしまったこと。墓が空だったという知らせも聞いたけれど、何も分からないままだということを。彼らは事実を語ることはできました。しかし、そこからの希望は、もう持っていなかったのです。
③ そのとき、旅人は語り始めます。モーセの律法から預言書に至るまで、聖書全体を開きながら、こう語るのです。「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入ることになっていたのではないか。」そのとき彼らは、まだ知りませんでした。今、自分たちに語っているのが、復活の主ご自身であることを。しかし、だからこそその言葉は、彼らの心の奥に触れていきました。「苦しみは栄光に」と言われるその言葉を通して、「この苦しみも、見捨てられた出来事ではなかったのかもしれない」と。そうして、固く閉ざされていた心が、少しずつほどけていったのです。後に彼らは振り返って言います。「道でお話しくださったとき、聖書を解き明かしてくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」そのときには分からなかった。分からないことがあった。けれど確かに、主は共に歩き、語り、心に火をともしておられた。主は、分かってから近づかれるのではありません。分からないまま歩く者と、同じ速さで、同じ道を歩かれるお方なのです。
④ 私たちもまた、「分からない」という道を歩くものでしょう。ことに迷うとき、祈っても答えが返ってこないように思えるとき。「自分は間違った道を選んでしまったのではないか」と思うとき。信仰に確信が持てず、現実に押し流されるように歩いているときです。エマオへの道は、本来、弟子たちが向かうべき道ではありませんでした。これはいわば、「都落ち」と言える表現です。失望のあまり、都を離れ、使命から背を向けた道でした。それでも、その道が無意味な道にはなりませんでした。それは、どんな道であっても主が共に歩まれたから。主は、私たちの選びをすべて、正しいものにしてくださるお方ではありません。しかしそれが、たとえ誤りの道、遠回りを含む道であっても、そこに共に立ち、語り、立ち上がる力を備えてくださるお方です。私たちが気づかなくても、信仰に確信が持てなくても、主は離れず、同じ速さで歩き続けておられるのです。
⑤ 今、私たちが歩いている道も、エマオへの道のように見えるかもしれません。しかし、その道が主と共に歩まれるなら、そこは復活の道となります。後になって、振り返る日が来るでしょう。「あのとき、主は共におられた」「心は燃えていた」と。この復活の主が、今日も私たちと共に歩んでおられます。気づかれなくても、名指されなくても、主は歩みをやめられません。この主と共に、私たちは今日も歩み続けます。アーメン。



