山陰の寒村の海は、透明度が高いです・・・が、
写真には映せない、海岸のゴミもあります。
対岸の国家の文字と思しきゴミもあります。
午後、柳井Cの信徒が長年関わる「一粒の麦」25周年記念コンサートが
柳井で行われました。そのお働きに心から感謝の念を抱きます。
徳山献花は、写真撮影が夜になりました。
カーネーション・・・母の日なのです。
今週の教会の行事は 以下の通りです。
5/16(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。
5/18(木)13:00 益田 小浜礼拝
14:00 益田 元町礼拝
19:30 六日市礼拝
5/20(土)水原牧師 大阪出張
5/21(日)10:45 徳山 礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
【ヨハネ福音書14章1節-6節】
「私は道であり、真理であり、命である」。ヨハネ福音書ではこのような断言調の主の言葉が目立ちます。「ご自身が弟子たちを神さまのもとに導く道であること、律法のがんじがらめの規定でなく自由に生きる真理を与える事、永遠の命に至らせる者であること」をお伝えになるのです。それが、ユダの離反とペトロの不確かな心の表出後に発せられたお言葉であることにも注目です。弟子たちの状況がどうであれ、主は弟子たちを導くのです。
愛の表出は弟子トマスの言葉が切欠です。本日の聖書でも彼は「分からない、知らない」と言います。安易妥協せず納得を欲するのです。納得できない事実があったのです。人間とは、目前に苦難があれば避けるか退けるかが当然でしょう。だが苦難を受けようとする主に、tマスは当惑するのです。主はご自身を信ぜよと言いますが、トマスにとって主の行為が人知から離れているため、ここでは信じるに不足の彼です。「心が自然と騒ぐ」のです。
トマスに対し、主は懇切丁寧な説明は避けます。「私が道、真理、命」と、ぶっきら棒な答えに見えますね。しかしここに主の意図が明らかです。主は「命」の言葉を使い分けています。一過性の命プシュケ、永続性の命はゾエ。ここでは「永遠の命」を意味する言葉が用いられているのです。主の真意をトマスは掴めません。そのままの思いで良しとされています
私たちもトマスと同様に、主の死と復活の意味や、「永遠の命」の教えを万全に知り、納得している訳ではありません。今はそれでも良い。でも最期の時「永遠の無」に旅立つか「永遠の命」に旅立つか、どちらが希望あるものか。或いは、近しい人を見送る時、「やがて会えます、行くまで待っていて下さい」との思いか、「もう会えない」の思いか、どちらが良いものをもたらすでしょうか。「道、真理、命」である主が先導する生を送りましょう。