2017年5月8日月曜日

4/30.5/7の教会と景色


5/6の小浜の海です。
海の透明度に感動して撮影しましたが、カメラの性能は現実を反映しません。

子どもが喜びそうな洞窟があります。きっと、先人たちもあそこで遊んだのでしょう。

4/29.5/6は小浜、益田、六日市で、
4/30.5/7は徳山でそれぞれ礼拝が行われました。

礼拝後にはそれぞれ、お茶や愛さんが振る舞われました。
 ・・・更新が遅れたのは、単純な怠慢でした。

今週の教会の行事は 以下の通りです。

5/9(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。



5/13(土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

5/14(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【ヨハネ福音書101-16節】
「迷える羊」として私たちは生きています。私たちを迷わせるのは、日常的な諸事も然り、また聖書も私たちを迷わせる物かもしれません。神さまのお気持ちを立てることと自分自身の生活の両立は時に難しい。しかし聖書で主の意図は確かです。「囲いの内側、外側双方の羊をも導く」と言われるのが主イエスだからです。日常諸事や聖書にすら迷うことを、恥じるでなく、そんな私を導かれる主を誇りましょう。「誇る者は主を誇れ」です。

さて、本文を見ましょう。今日の聖書は、主が盲人を癒した話の続きに位置しています。主の趣旨としては、ファリサイ派こそが人々を惑わせる盗人、強盗、自分の羊を持たない雇人ということです。実際、前段落でファリサイ派は元盲人を散々悩ませました。主はそのように、当時の宗教制度の内側で迷う「囲いの内側の」羊を導く心を大切になさいました。それだけでなく、「囲いの外側の」羊をも導くと言われます。主の意図としては、ユダヤ人、異邦人の区別が囲いを表しますが、そのように言われる囲いに私たちも入っています。

ところで、聖書を続けて読むと「囲いの内側」の弟子たちは、囲いに入りっ放しでしょうか。それぞれ出て行ってしまいます。私たちも然り? 立場的には「教会員」ですが、それに「迷える」という冠名が付いて「迷える教会員」。なぜ出たり入ったりするのか。羊と言う動物が私たちと類似しています。羊飼いは、そんな羊に名前をつけ大切にするのです。

人間を羊に、神さまを羊飼いに例えたのはここだけでなく、詩編23篇がそうです。「盗人、強盗」とは、病や困難、厳しい仕事などでしょう。「狼」とは死そのものです。しかし「たとえ死の影を歩むとも、私は災いを恐れない」と詩編は言います。「恐れ」は消えない。未知なのですから。その未知なる日々を歩む時、主が共にある事が私たちの支えです。