このブログの仕様のせいでしょうか、撮った写真を載せられません。
そのうちに直したいと思います。
8/8 土曜日 15時 柳井C礼拝
8/9 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書14章22-33節】
今日の聖書は、いつの時代でも、そしてどのような人にも「あてはまる」話と言えます。一体何が、「あてはまる」要素なのか。およそ「逆風、漕ぎ悩むこと(24)」や、「波(24)」という周囲の状況に「悩まされる」経験は、人類共通の課題でしょう。そのような渦中にあって、主が近づき、船は無事に目的地に着く。始めて聖書を読んだ時は、何とご都合主義と思えました。「主に信頼をし、生きる」という教えが香ります。しかしこの話を深く読む時、ご都合主義でなく、現実の中で導かれた話となります。共々に、み言葉を聞きたい。
「現実」とは何か。それは思い通りに行かないことの繰り返しです。上で触れた「逆風」や「漕ぎ悩む」こと、「強いられる」こと。22節には「弟子たちを強いて船に乗せた」主のお姿が記載されています。朝晩の大風がガリラヤ湖に吹くのをご存じの主が、なぜ弟子たちを船に乗せたか。弟子たちはなぜ従ったか。時にはこのような不条理に、人は直面すること、人は不条理に逆らえないこともある、不意の困難に出会うことの象徴でしょう。
嵐の混乱の中で、主はあえてご自身を現されます。自失状態であった弟子たちは、主を幽霊と見做してしまいます。また主はあえてペトロに、来よと言われます。疑うペトロは溺れてしまいます。主は上記の乗船も含め、「あえて」色々なことを命じられます。弟子たちはその都度慌てる姿を示すのです。しかし根気よく導かれる主に「助けられて(30)」、目的地へと着く。弟子たちはその後、自身の姿を他者に伝え、これが福音となるのです。
今の時代がどこに向かうのか、私たちがどこに向かうのか、それは分からないことです。決して思い通りになることはないでしょう。「逆風」に漕ぎ悩む、「強いられて」不条理に直面させられることもあります。しかし、私たちにはそのような現実に向かい合うための言葉があります。「主よ、助けて下さい(30)」これを主は、祈りの言葉として私たちに下さいました。人生そのものも、或いはこの数カ月の事態も、嵐のような状況です。漕ぎ悩む過程の中で、私たちの船に主が共にあることを支えとして、日々を過ごしていきたい。