今週、来週の礼拝は下記の通りです。
7/4 土曜日 15時 柳井C礼拝
7/5 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝(藤井邦夫牧師)
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書10章40-42節】
「一杯の水(42)」が意味することは何か。「支え、言葉、愛情…」と言い換えることが出来ると思います。渇いている状況の中で、他者から示されるそれらがどれほど必要なものか。また逆に、誰かが渇いている状況において、その人に「一杯の水」を差しだすことが出来れば、それがどれほど「自分と他者にとって」幸せか。私たちはこの「一杯の水」を受ける者であり、また与える者であったと思います。それを思いつつ、聖書を開きたい。
今日の聖書は、10章の「弟子の派遣」に際して語られた主のお話の結びに当たります。冒頭から「受容される(40)」という主の確かなお言葉が響きます。何が、誰が受容されるのか。主の教えを携えた弟子たちが受容されるというのです。弟子の派遣に際して、主が託した教えの要点は2つ。「天の国は近づいた(10:7)」と「病者への接近と癒し(10:8)」でした。これらを伝え、行うための「権能(10:1)」も授けられたのです。
弟子たちの活躍の様子は、この後も記載されていません。ここでは「2つの要点」の内実を見たい。1つ目の「天の国の接近」これは別福音書では「神の国の接近」とあります。当時としては斬新極まりない教えです。「神に近づくのでなく、神が近付く」信仰は、特に貧困層に歓迎されたことでしょう。また「病者への接近と癒し」も同様。公衆衛生を守る(レビ13章)という、律法創設時の目標が見失われていた時代でした。主のお言葉や弟子たちの癒しの業は、必要とする人々に喜びをもって受容された事と思います。
41節の「預言者」とは、一つは「旧約聖書」。「正しい人」とは主のこと(3:15)。これは聖書全体を自身の人生に受け入れ、道しるべとするということでしょう。そして「水一杯」の教え。「冷たい水」とは、汲みたての水、あるいは飲み水としての大切なものです。誠心誠意の働きを為す時、相手も神さまも応えて下さるというのです。私たちは、他者からの「支え、言葉、愛情…」を受けた時の心の温もりを知っています。願わくば、誰かにその行いを為す者でありたい。前提である「神さまの近づきの信仰」に立ちつつ、ただ、淡々と。