2020年6月16日火曜日

6/10.13.14 六日市と柳井、徳山と防府


 6/13の柳井C礼拝堂です。
 見えにくいのですが、アジサイが献花となっています。



 こちらは6/14の徳山C礼拝堂です。
 アジサイ。この時期の花ですね。

 降ったり止んだりの一週間でした。
 時に、梅雨の終わりを思わせる程の強雨もありました。
 6/10の六日市、6/14の午後には防府でも礼拝が行われました。

 シオン教会では、6月から、それぞれのチャペルでの礼拝を再開しました。

 また、変わらずに郵便での「家庭礼拝送付」も続けています。
 お入り用の方はご連絡ください。

今週、来週の礼拝は記載の通りです。

6/17 水曜日 19時 六日市礼拝 

6/19 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       牧師室ではなく集会室で行います。 

6/20 土曜日 15時 柳井C礼拝 

6/21 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書935-104

 「収穫」とは、作る側と見る側とではその意識が異なるものでしょう。防府や冠山の梅花、下松のバラなど、作り手であるお世話する方の労を想像します。私たちも何かを作り、育て、収穫する時、苦労の反面、喜びはひとしおかと思います。収穫とは、生み出す当事者が懸命になって作り出すものでしょう。どうしても「物」「結果」に焦点が当たりますが、「生み出す当事者の思い」やその「過程」こそが「収穫」でしょう。一人ひとりの、生の重荷や感情を、主は「大勢の人(36)」との出会いで見出し「収穫」と呼ばれたのです。

 

 「人々は打ちひしがれ」、「飼い主がいない羊のよう(36)」だったとあります。今日の聖書の舞台は「ガリラヤ(91)」です。ここは長年、「暗闇の地(416)」と蔑視される場でもありました。人々には病や生活困難、被蔑視感の蓄積がありました。神さまを語るはずの宗教者も、機能していなかった。そこに主は「福音=神の良き訪れ」を語り歩かれたのです。その福音は人々の心に浸透し、人々は、主にこそ自身の素の所を曝すのです。

 

 私たちは、普段は自身の弱さを思いつつ、それを現すことはしません。感情を覆って生きています。当時の人々も同様でしょう。でも彼らは、主のみ前には「寄る辺なく、挫折し、弱る」自身を現しても良いと判断した。主の包容力の高さはここだけでなく、「収穫」という言葉にも現れます。「人の生の苦しみを食い物にする」ことでない。個々の収穫を取り上げる者が少ない、心を聴く者がいない。だからこそ、神さまに働き手を求めよと言う。

 

 主のみ弟子の中(1-4)には、徴税人と熱心党という、いわば両極端な人々がいます。誰もが生きる中で、自身の主義主張を抱きます。時には誰かを傷つけ、傷つけられる。主はしかし、その人々を自身の弟子とし、前述の「人々に関わる働き」のための使徒とするのです。主に知られない、生の過程の葛藤はありません。私たちは、かつてはこの「ガリラヤの人」であったかと思います。しかし「まことの羊飼い」に導かれる日々を、今は過ごしています。その原点を常に確かめつつ、ねがわくは、使徒として他者と関わりたい。