今週、来週の礼拝は記載の通りです。
6/17 水曜日 19時 六日市礼拝
6/19 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山
6/20 土曜日 15時 柳井C礼拝
6/21 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書9章35-10章4節】
「収穫」とは、作る側と見る側とではその意識が異なるものでしょう。防府や冠山の梅花、下松のバラなど、作り手であるお世話する方の労を想像します。私たちも何かを作り、育て、収穫する時、苦労の反面、喜びはひとしおかと思います。収穫とは、生み出す当事者が懸命になって作り出すものでしょう。どうしても「物」「結果」に焦点が当たりますが、「生み出す当事者の思い」やその「過程」こそが「収穫」でしょう。一人ひとりの、生の重荷や感情を、主は「大勢の人(36)」との出会いで見出し「収穫」と呼ばれたのです。
「人々は打ちひしがれ」、「飼い主がいない羊のよう(36)」だったとあります。今日の聖書の舞台は「ガリラヤ(9:1)」です。ここは長年、「暗闇の地(4:16)」と蔑視される場でもありました。人々には病や生活困難、被蔑視感の蓄積がありました。神さまを語るはずの宗教者も、機能していなかった。そこに主は「福音=神の良き訪れ」を語り歩かれたのです。その福音は人々の心に浸透し、人々は、主にこそ自身の素の所を曝すのです。
私たちは、普段は自身の弱さを思いつつ、それを現すことはしません。感情を覆って生きています。当時の人々も同様でしょう。でも彼らは、主のみ前には「寄る辺なく、挫折し、弱る」自身を現しても良いと判断した。主の包容力の高さはここだけでなく、「収穫」という言葉にも現れます。「人の生の苦しみを食い物にする」ことでない。個々の収穫を取り上げる者が少ない、心を聴く者がいない。だからこそ、神さまに働き手を求めよと言う。
主のみ弟子の中(1-4)には、徴税人と熱心党という、いわば両極端な人々がいます。誰もが生きる中で、自身の主義主張を抱きます。時には誰かを傷つけ、傷つけられる。主はしかし、その人々を自身の弟子とし、前述の「人々に関わる働き」のための使徒とするのです。主に知られない、生の過程の葛藤はありません。私たちは、かつてはこの「ガリラヤの人」であったかと思います。しかし「まことの羊飼い」に導かれる日々を、今は過ごしています。その原点を常に確かめつつ、ねがわくは、使徒として他者と関わりたい。