今週、来週の礼拝は下記の通りです。
6/26 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山
6/27 土曜日 15時 柳井C礼拝
6/28 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書10章24-32節】
私たちがこの年、読み進めるマタイ福音書は、特に旧約聖書の思考、土壌を強く受け継いでいると言われています。その表れの一つが福音書冒頭の「系図」。聖書を開く者に、まことのユダヤの血筋としての主の誕生を伝える意図がある。その旧約の神さまの描かれ方は「怒り(民数記など)、妬むお方」となります。これらは、神さまの愛の「裏返しの表現」なのですが、それが特に今日の主のお言葉の中に含まれてもいるのです。
今日の聖書は、主が弟子たちを派遣する脈絡の中に置かれています。この福音書では、弟子たちはおそらく個々に遣わされるものと思われます。それは私たちの姿とも重なります。今私たちは、主のみ翼の陰にやすらう「群れ」、しかしこの世では、時に「暴風」の前に散らされそうになるものです。その私たちに、24~25節が告げることは、「背伸びをすることなく、自身の本分に留まる」こと、師である方を超えないという勧めなのです。
ただ主のみ教えが、26節以降になると変わってきます。初めの「神の怒り、妬み」を彷彿とさせる教えに近づきます。「人々ではなく神を恐れる(26節~)」「主を否まず、仲間であると公言する(32節~)」「家族ではなく神を第一にする(36節~)」。全体的に言えば、この世ではなく神と主との絆に生きるというものです。主の時代ならばともかく、4世紀までのキリスト教迫害時代にはどう受容されたか。そして、今日の「成熟した社会」に生きる私たちには、このような「宗教原理主義的」な生は、誤解の源となるでしょう。
神さまの愛の、表現の方式は時代や背景によって異なるものです。「2000年前のユダヤにはユダヤの、今日には今日の」伝え方があるのです。特に私たちが注目したいのは、スズメに関する(29-31節)教えでしょう。一羽では無価値とされるスズメが、個々に派遣される弟子に例えられる。その一羽、その(髪の毛の)一本、その一人を世の中は無価値と評するかもしれない。そうであっても、神さまの愛は一羽を、一人を、あなたを離さないと言われるのです。さあ、この週の歩みも始まります。愛に留まる群れでありたい。