2020年3月15日日曜日

3/14.15 礼拝堂と献花、看板

  3/8(日)の防府礼拝所でした。曇天で、なかなか良い写真がとれません(なみだ)。
 防府礼拝所の、道に面した看板は柳井礼拝所の方が記載して下さいます。
  こちらは、3/14(土)の柳井礼拝所でした。四旬節も第三主日に入りました。
こちらは、3/15(日)の徳山礼拝所でした。
 この日は、熊本から木下理牧師、その御伴侶も礼拝に集われました。
 また、手術を終えられた方のご家族、入院・加療を要する方のご家族も集われました。

今週、来週の予定は下記の通りです。

3/18 水曜日 19時 六日市礼拝


3/19 木曜日 15時 牧師訪問日

3/20 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山 休会となります。
       10時 西教区総会 於:大阪教会
  
3/21 土曜日 15時 柳井C礼拝 

3/22 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ヨハネ福音書 45-26
「しかし、サマリアを通らねばならなかった(4)」。この短いお言葉に主のお気持ちが込められています。「ねばならない」とあります。日本語の微妙な言い回しですが、この言葉には「強いられて」という意味、「自らの意思を強く押し出して」という意味があると思います。「サマリアを通る他に道がなかった」のか、「主は自らの使命感をサマリアに見出された」のか。この言葉に隠された主の気持ちは、今日の聖書全体で明らかにされます。

サマリア入りされた主は、「ヤコブの井戸」に座を作ります。弟子たちの軽挙ゆえ、急な行動を求められ、お疲れだったのでしょう(1-4)。時は正午、そこにサマリアの女性が登場します。言うまでもなく、水汲みにはあり得ない時間帯です。水を求めた主に、素っ気ない態度(9)、関わりを持とうとしない態度(11)を示します。ところが、そういう言葉の端に主はこの女性の「渇き」を見出すのです。つまり、周囲の女性、男性、宗教者から受けている「冷たい」扱いで、この女性の心が渇き切っていることを主は見抜かれるのです。

そうです。「渇いている(15)」女性は、「汲みにくること(15)」もまた苦しみなのです。主は、「正午の水汲み(7-14)を通して、この女性が周囲の女性から受けている目線に気付かれた。また主は、「五度の離婚(16-17)」を通して、この女性が市井の宗教者から受けている目線にも気付かれた。そして主は「未入籍の現状(18)」を通して、同棲中の男性がこの女性を「モノ」扱いしていることにも気付かれた。主の眼差しの凄さです。

「強弁」の裏には、渇きがあった。主はこの女性と出会うため、サマリアを通られたのでしょう。そしてこの女性に限らず、助けや救いを求めている人と出会うため、主はこれからも道を歩まれるのです。「君は愛されるために生まれた」韓国発出の讃美歌です。「心の嘆きを包まず述べて」も「いつくしみ深き」の歌詞の一つです。この世でも、教会の公同の礼拝でも、自身の心の嘆きを発出する余裕はないのかもしれません。むしろ、主との個別の出会いである「祈りの時」にこそ、嘆きを出したい。それを「祈り」とも呼ぶのです。