これは、12/27の防府教会です。
これから寒波が来る前の光景です。
これは、12/24の早朝の徳山礼拝堂。
1/10 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ マタイによる福音書 2:1~12 (新共同訳聖書、新約2ページ)
■ 説教 「主の導きを信じて生きる」 新年と共に、改めてクリスマスの意義を思い起こす「顕現主日」を迎えています。聖書は固定の日課であるマタイ福音書2章。この聖書から、年頭のみ言葉を聞きましょう。さて、主の誕生は紀元前4年頃、その年の歴史的事象は、ヘロデ大王の逝去でした。主がお生まれになったのは、ヘロデの最晩年期。地位保全のため数人を残して、10人前後の妻や多くの子たちを粛清しきった頃です。その大王のところに、「占星術の学者」が訪れます。
彼らは他国の政治顧問団でした。仕える王の意を受け「ヘロデ王」を訪ねた。他国に威勢よく響いたヘロデ王に真の皇太子が生まれた…少なくとも彼らは、星の運行からそう判断し、祝意を伝えようと思ったのです。ところがヘロデ王には寝耳に水。この数年間大王が苦心したのは、意図する継承者を定め「余計な者」を排除することでした。だからこそ「不安を抱いた(3)」ヘロデ王と、政情不安を案ずる人々の「不安」が交差したのです。
なぜ学者たちは、ベツレヘムではなくエルサレムを訪ねたか。なぜ「民の祭司長」たちは、「寒村と預言されていたベツレヘムを、寒村ではない」と公言したか。なぜヘロデ王は、「ベツレヘム周辺の二歳以下の子」を虐殺する命令を出したのか。問いは尽きませんが、大切なことは主が、このような人間社会の中に生まれて下さったこと。それをマタイが包み隠すことなく後代の私たちに書き残すこと。学者たちへの導きの再顕現を記すことです。
どの福音書も、主の誕生や初出に関しては、楽観的な描写はありません。母親たちの嘆きの声や過酷な旅(マタイ)、荒野(或いはベタニア)に登場される主と悪魔の誘惑(マルコとヨハネ)、家畜小屋(ルカ)と。これは神さまが、主をどのような方として見做していたかの一つの証しであります。昨年の今頃も今年も、先行きはそもそも不透明なものです。期待しつつ、希望を思いつつ、しかし不透明な歩みを、主と共に行うものでありたいと思う。
|