「一粒の麦」職員や、教会員によって手入れがなされています。
来週は白。主の変容主日となります。
天上の布はそろそろ仕舞い、四旬節に向かいます。
今週、来週の予定は以下の通りです。
どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。
2/14 日曜日 10時 徳山C聖書の学び
15時半 防府C礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ マルコによる福音書 1:29~34 (新共同訳聖書、新約62ページ)
■ 説教 「病める者への関わり」
神さまや主イエスは、信仰者の(未信の)家族にどう関わるか。具体的に私たちは、家族、知人にどう関わるか。ユダヤ教社会の中でキリスト教徒が少数派だった時代、その問いをマルコは、今日の主を思い起こしながら解きほぐしたに違いありません。「心に覚える、とりなす信仰」が結論で、今日の聖書に書かれていることです。今日の前置きは、先日の聖書、マルコ1:16以下にある「すぐに(1:18.19)」動く漁師たちと主の姿となります。
漁師たちが弟子とされた時、既にペトロの姑は熱病でした。漁師たちは「すぐに」弟子になりましたが、主も「すぐに(29)」ペトロの家に行きます。伝える者がいなかったので、主は姑の熱を知りません。しかし一刻を争うように主は姑のもとに「すぐに」行かれる。姑の家で主が彼女の手を取ると、病は癒えます。この奇跡には主の ①病の理由である「悪霊退さん」が出来るお方 ②弟子の家族をも顧みられる方、との二つの意味があります。
②の展開で、主は、私たちの家族への顧みという暖かな使信を今日、得たい。加えて大事なこと、それを受けた私たちの歩みとなります。30節で「彼女のことをイエスに話した」人々の姿が書かれています。時系列を見ると、この出来事は「癒しの前」です。病み患う両親や子どもの代わりに、医師にその様子を説明する経験はないでしょうか。ここで人々は「主に姑をとりなす」のです。これは私たちに、「身近な人を覚えて祈る」と展開できます。
そして主はこの後、主にしか出来ない「とりなし」を行います。「十字架と復活」で、全ての人に御国が開かれたのです。「とりなされた」つまり、「神さまや主イエスと顔なじみになる」ことです。いずれ、時が来たら「神さまや主に相まみえる」ことになります。その日まで、主が私たちの特に「病める」家族に関わって下さることを覚えたい。「直ぐに」出かけて下さった今日の聖書を思いつつ、深めたい。祈られる者から、祈る者へと導かれたい。