冬晴れに映える教会です。
献花はシクラメン。牧師室のシクラメン8鉢に、仲間として加えられました。
どうしよう…。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
1/11 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝
1/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
1/15 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
1/18 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝
1/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
◆ マタイ 3:13~17 (新4)
説教 「私が生きていることが神の奇跡」
「私たちが今ここに居る」ことは、控えめに言っても奇跡です。ただし、「複雑な出来事」は続々と現れるため、過去の奇跡よりも今、これからが案じられるものです。主の時代は、一部の「富裕層」「上層階」に宗教者たちが働いていました。その中で洗礼者ヨハネの「洗礼」運動は革新的でした。「複雑な出来事」を抱える中、「回心」「神さまがあなたを見ている」と聞いた人々の喜びを思います。洗礼を希望する人々の列に、なぜか主も加わります。
主の洗礼に、マルコ、ルカ福音書は答えを出していません。誰もが不思議に思う主の洗礼とは、何か。「罪の赦し」としての洗礼は、神と自分との関わりのことです。「主の、罪の自覚の可能性」を思いつつ、そこに「触れない」というマルコとルカの見識かもしれません。一方でマタイ福音書の主は饒舌です。「止めないで欲しい、正しいことを行うのは、相応しいことです」と。主の中では、「洗礼を受けること」は「正しいこと」と結びついているのです。
主の父ヨセフがマリアの妊娠を知った際、彼は「妻と子の命を守る」決断をし、聖書はそれを「正しい人」とします(1:19)。律法学者の価値観は「律法順守が正」、ヨセフは、誰かの命を支える決断を「正しい」と決意し、実行したのです。では主は、ここで誰を支えようとしているのか。「罪」とされるものを負わされ、その中で生きる一人ひとりです。神は決して高所に在する方でなく、日々、同じ始点に立つ方を示すため、主は洗礼を受けたのです。
洗礼時に、「愛する子(17)」として主が名指しされています。これは、詩編からの引用とされています。しかしマタイは「お前は私の子(詩編2:7)」を変え「私の愛する子」とします。神さまは、旧約の時代に一人ひとりを「宝の民(申7:6)、子」と呼びましたが、主ご自身を「愛する」と、当時にしては破格に呼ぶのです。それに増して、私たちは神と主から愛されているのです。あの十字架を通して、私たちには永遠の命が約されていることを覚えたい。