6/1(水)の徳山の礼拝堂です。
土曜日に活けて頂いたカラーの花が、未だ元気です。
朝晩はまだ少しヒヤッとする六月の入口。
こちらは防府の納骨堂。横の草が刈りはらわれました。
信徒の方のご奉仕です。
五月晴れの良い一日でした。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
6/1 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
6/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
6/8 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
6/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ヨハネ/John 17:20~26 (新203)
20また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。 21父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
22あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです23わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。
こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
24父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
25正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
26わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
■ 説教 「その日、その時の祈り」
「聖書」は、神さまや主の「偉大さ」を語る意味で「聖」書と言えます。一方で、対象たる人々、特に福音書の姿は立派なものではありません。「灯心、もしくは葦(イザヤ書)」のように、周囲の影響を受ける、普遍的な人間の姿が記載されています。ヨハネ福音書13章から17章までは、特に「心を騒がせるな(14章)」とあるように、「灯心/葦」な弟子たちの姿があります。しかし主は、そのような弟子たちに「つながり(15章)」「祈る(日課)」のです。
20節を見てみましょう。「彼ら」とは弟子たちです。注目は主が「弟子たちの働き」に触れていることです。この時の弟子集団は「ユダの退出とペトロの離反予告」が象徴的な出来事で、瓦解寸前でした。そういう状況の中、主が告げることは「あなた方の働きも、実を結んだ(信仰に至った人もいる)」ということです。今の弟子たちには、かつての働きに思いを向けるゆとりはないでしょう。主の意図は、今このときではなく、やがて、にあるのです。
続けて主は「彼らに栄光を与えた(22)」「私は彼らの内にいる(23)」と、祈りの形式ではありますが、弟子たちの心に「かつての主との日々」を思い起こさせる言葉を語られます。「今の時」が自身に、どうような時か。困難な時にはただ、その場をしのぐしか無いのです。大切なことは、平常時と危機の時、それぞれを重ね合わせて持つ私たちに、主は思いを向けて下さることです。その意味で、聖書の「聖」という言葉をとらえることもできます。
ルカ福音書ですが、主はペトロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけて欲しい」と言われます。その力の源は、26節「主のみ名」であり、「私も彼らの内にいる」というものです。イザヤ書でいう「灯心」からは炎が消え、「葦」は折られるものでしょう。人は一時、心が折れることがあります。しかしその度ごとに、主は「私たちの内に」いてくださいます。「倒れないこと」ではなく、「倒れても共に立ち上がる」主のみ姿を覚えたい。それが「聖書」なのです。