会員さんの誕生日に送られた「野菜花束?」
見覚えのある野菜が用いられています。
ミニトマトに、教会の子どもたちが群がっていましたが。
こちらは本日の献花です。教会の野の花が用いられています。すばらしい。
本日、徳山では礼拝が行われ、その後愛さんが行われました。
ご飯はピースが使われていました。今、この世にもっとも必要なものでしょう。
来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
7/24(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
7/21(木)には、
益田14:00~ 礼拝、
六日市19:30~ です。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にいらして頂けます。
本日の説教要旨です。
【ルカ福音書10章25-37節】
「行って同様にせよ(37)」良きサマリア人の結びです。それでは、何を同様に為すのでしょうか。愛の行為でしょうか。実際教会は中世期、この話を「献身と奉仕」に結合し教化しました。主の話に聴くまでもないことでしょう。しかし自身の愛には限界があります。主は果たして、この聖書で愛の行為を勧めておられるか。聖書を注意深く読んで行きましょう。
主の話で、傷ついた旅人の傍を通るは三人です。祭司とレビ人は大枠では宗教者です。常日頃から愛と奉仕を語ります。その二人は旅人を見ると「道の向こう側を通る」のです。有言不実行です。ちなみに彼らはサマリア人も糾弾していました。そのサマリア人は傍に来る。「憐れに思う」。忌避と正反対です。心を痛める断腸の思いです。愛を実行します。聞き手が「律法の専門家」ですので、皮肉、つまり「有言不実行」ではないかと指摘するのです。
「律法の専門家」は永遠の命の受領法を「試みに」聴く。つまり、主の言葉を審査する心です。「自分を正当化」というのは、説くだけ説いて実行しない自分を正当化するということです。専門家の姿は話中の宗教者と重なるのです。宗教者は「憐みの心」を抱かず。サマリア人「憐れに思う心」を抱く。それがこの話の肝要部分です。愛の実行が聖書の私たちへの骨子ではなく、その原点こそ大切なのです。「愛の反対は憎しみではなく、無関心なのです」。
私たちは、この話の中で、誰に近しいでしょうか。時に祭司であり、時に旅人であり、時に宿屋の主人でありましょう。サマリア人の愛の奉仕は為し得ないと思います。だが主は「私たちには」初めから十全な愛の奉仕を求めない。愛の実践は、有言不実行の専門家だから言ったことです。サマリア人が旅人を見たときに抱いた「憐みの心、つまり無関心を捨てて、関心」を得たいと思うのです。まず、第一に、何よりも、祈ることを大切にしたい。