サザンカ、ではなくアジサイです。
頭の回路がどうなっていたのか、私はこの花を「サザンカ」と紹介していまいました。
本日も徳山Cでは礼拝が行われました。
礼拝後には、徳山大学の留学生の方が、キリスト教に関する自主研究のレポートに、
有志の方が協力していました。むろん、わたしも。
来週は、六日市での合同礼拝となります。
徳山教会での礼拝は六日市に合流して行われますので、ご留意ください。
本日の礼拝説教です。
【ルカ福音書7章1-10節】
このルカ福音書に流れる理念は「分かり易さ」そして「外に伝える」ことです。私たちで言えば、家族ですとか、友人ですとか、そこにも主は関わるのです。今日もそのことが記載されています。登場の百人隊長は、100名ほどの兵の指揮官でした。ユダヤから見ればローマ人で異邦人でした。彼は、重症な部下を抱えている。彼は家に呼んで、兵を看病するのです。
百卒長は主を呼びますが、途中で思い直す。ローマ人の自分が主を呼ぶのは「相応しくない」とし、ただ主の言葉だけを願います。主は兵を癒します。これが奇跡の一つ目です。実はこの話にはもう一つの奇跡があります。隊長にとって、この部下はいかなるものか。当時、兵隊は現地徴収の奴隷で、補充可能「部品」かつ「持ち駒」でした。だが百卒長は部下を歯車と見なさず、家族の一員と見なすのです。この考え方も奇跡と呼び得ます。
当時のユダヤは「神様は信仰者以外を顧みない」という考えでした。ユダヤの歴史は旧約聖書に載せられていますが、一面は神さまがユダヤの人々を助けた歴史です。意地悪な見方をすれば、ユダヤの征服史です。神さまは、信仰がない人々を、アブラハム,モーセ、ヨシュア等を遣わして征服させた、という見方です。主の時代も残る考えでした。しかし神さまは果たして、民族を区別なさるような方か。違いますね。主は神さまの幅広さをこの奇跡で示された。
み言葉の要点は三つです。その一「主は垣根を超える」私たちは先立って主の群れとされましたが、主は私たちを用いて外へ更に働こうとされます。私たちは、執り成しの祈りが大切です。その二「相応しくないと思う者にも働く」相応しく無い者などいないということです。その三「私たちにできることは何か」。この隊長は病める部下の傍に居ることが出来ました。私たちに為し得ることは、必要とされる処に居続ける。祈りつつ居続けることです。