一週空いた更新となります。先週はインフルエンザで臥せっていました。
礼拝はそれでも、やり遂げましたが。
百合の花が今週の献花でした。
礼拝後、徳山Cでは総会が行われました。幾つかの議案が感謝のうちに承認されました。
来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
どなたでもご自由にお集まりいただけます。
2/14(日)
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
2/11(木)には、
益田小浜にて14:00~
六日市19:30~です。
本日の説教要旨です。
【ルカ福音書9章28-36節】
聖書を読む中で「解せない」場面との出会いはありますか? 私の場合しばしばです。今日の聖書では「ペトロの眠気」です。「眠気」とは、言葉だけを取ればあたりまえのことです。しかし、ここ一番や緊張時はあり得ないものです。主の伴に選ばれてなぜ「眠い」のかは不思議ですが、私にとってもっと理解できないのは、なぜ聖書がわざわざここに、ペトロの「眠かった」という状況を記すのかということが不思議なのです。
聖書の脈絡も教会暦も、この箇所は一つの分水嶺。教会暦では今週から四旬節。クリスマスの喜び(顕現)から十字架を想起する日々(四旬節)。聖書では主の受難予告直後です。主は弟子数名を連れて登山し、主が変容されます。「最期」について旧約の偉人と語り合います。この「最期」厳密に言えば「the end」でなく「the terminal」。終局でなく、転換なのです。架刑や死は、主にとって終わりでなく、転換ということです。
しかしペトロと仲間たちは「眠い」のです。後に彼らは自分たちの眠さ、不甲斐なさを想起したのでしょう。主にとっての重大局面時、我々は眠かったと。我慢する中で主の変容が起こります。ペトロは覚醒し、良く分からないまま主に「仮小屋」を三つ立てる提言をします。すると、「イエスさまの声に聞くように」の御声が、ペトロにも届きます。