2016年2月7日日曜日

2/7 礼拝と献花


 一週空いた更新となります。先週はインフルエンザで臥せっていました。
 礼拝はそれでも、やり遂げましたが。

 百合の花が今週の献花でした。

 礼拝後、徳山Cでは総会が行われました。幾つかの議案が感謝のうちに承認されました。

 来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にお集まりいただけます。


 2/14(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 2/11(木)には、
       益田小浜にて14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。



【ルカ福音書92836節】
聖書を読む中で「解せない」場面との出会いはありますか? 私の場合しばしばです。今日の聖書では「ペトロの眠気」です。「眠気」とは、言葉だけを取ればあたりまえのことです。しかし、ここ一番や緊張時はあり得ないものです。主の伴に選ばれてなぜ「眠い」のかは不思議ですが、私にとってもっと理解できないのは、なぜ聖書がわざわざここに、ペトロの「眠かった」という状況を記すのかということが不思議なのです。

聖書の脈絡も教会暦も、この箇所は一つの分水嶺。教会暦では今週から四旬節。クリスマスの喜び(顕現)から十字架を想起する日々(四旬節)。聖書では主の受難予告直後です。主は弟子数名を連れて登山し、主が変容されます。「最期」について旧約の偉人と語り合います。この「最期」厳密に言えば「the end」でなく「the terminal」。終局でなく、転換なのです。架刑や死は、主にとって終わりでなく、転換ということです。

しかしペトロと仲間たちは「眠い」のです。後に彼らは自分たちの眠さ、不甲斐なさを想起したのでしょう。主にとっての重大局面時、我々は眠かったと。我慢する中で主の変容が起こります。ペトロは覚醒し、良く分からないまま主に「仮小屋」を三つ立てる提言をします。すると、「イエスさまの声に聞くように」の御声が、ペトロにも届きます。

所が数か月後、ペトロは主の言葉に留まりえないのです。丘の上に三つの聖所でなく三本の十字架が立ちます。だが既に、主は「受難予告」や本日の聖書で、死と共に復活を示唆しておられました。主の十字架は「終局」ではなかったのです。いかに自分が愚かでも、それを覆う主の愛を強調するため、聖書はペトロの「眠かった」という姿を記すのです。このペトロの姿は、私自身の姿でもあります。そのままで、愛されている。