こちらは、11/7(日)の防府の礼拝堂でした。
写真は撮っていませんが、この画面の下には、歴代の防府をお支え下さった
召天者の方々がお写真として、礼拝に参列くださいました。
こちらは、11/7(日)の徳山の礼拝堂でした。
お写真はすでに、ご自身の「ご自宅」や「記念庫」に戻られましたが、
大勢の方々がお写真としてご参列くださいました。
柳井、防府、徳山とも、それぞれのチャペルで大勢の方々とも礼拝を守りました。
六日市では、11/17(水)に召天者記念礼拝を執り行います。
今週、来週の予定は以下の通りです。
15時30分 防府チャペル礼拝
■ 説教 「持ち物をささげた人々」
使徒言行録3章には「金や銀はない」しかし「主のみ名(の力)」の奇跡を行うペトロの姿があります。本日は召天者記念礼拝。懐かしい方々と再会しています。「金や銀を受け継ぐ」以上に、多くの思い出を与えられました。今年、教会では2名がみ国に召され、召された方は、ペットたちも含め、主の御腕に抱かれておられます。最期は、それぞれ痛みがあったでしょう。だが今「涙が拭われ、痛みなく、嘆きない」場におられる(黙21章)のです。
冒頭の使徒言行録で、ペトロに癒された彼も、足の痛みを覚えていました。逝きし全ての方々は、それぞれ、自身の命や病と向かい合いながら「その時」を迎えるものと思います。この日の聖書に出てくるのは「やもめ」で、ご主人を先に送った女性となります。「社会保障制度」として「落穂拾い(ルツ)」や、「寡婦保護規定」(申10)もありましたが、保障制度の隙間を付く行為もあったようです(マルコ12:40)。その彼女が神殿に来るのです。
彼女の生活や心情は、ぎりぎりの所ではなかったかと想像します。追い詰めたのは、本来なら頼りの宗教者。その宗教者が「やもめの家を食い物にする」状況。ついに彼女は、神さまに祈り、頼るべく神殿に来たのです。捧げられるものは、相対的な価値では低い「2レプトン(約50円)」でした。しかし神さまは、相対的な価値や比較ではなく、み前に立つ人の深い心をご覧になります。「ぎりぎりの状況」は、これこそ望まずに来る厄介な事柄です。
そこで聖書、やもめが「捧げた」のは何か。私たちも「捧げる」のは何か。見えるものは、金銭です。神さまは、相対的な価値(額の多寡)ではなく、個々人に「絶対的な価値」を見出されます。「私の目にあなたは貴い(イザヤ43)」。捧げものは、金銭だけでなく、祈りもあります。「ぎりぎりの状況」に立つとき、立った時、立たされそうになるとき、その中で「祈る」群れでありたい。それがかつての人々や、今やこれからの人々の支えとなったのです。