徳山チャペルでは、9/5の夕べ、前夜式が行われます。
地上のご生涯を9/3に終えた兄弟の式が、今夕と明日、教会で行われます。
今週、来週の予定は以下の通りです。
今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ マルコによる福音書7: 31-37 (新共同訳聖書、新約75ページ)
■ 説教 「導かれ、道引かれて 今」
お仏壇前、墓前、記念堂前にて、懐かしい人に思わず語り掛けます。親しい方が難聴、失聴を患ったとしても、私たちは肉声で語り掛けると思います。確かに、此方と彼方は隔てがあるでしょう。でも、隔てを思いつつ、感情を届ける気持ちがあるのです。その様子の前例は主イエスでした。かつて地上の命を終えた少女に「起きなさい」と語り、今日の日課では「聴覚・言語障がい」の方に向かい、語るのです。主による、この出来事を聞きましょう。
まず注目したい主の行動は、歩みの道のりです。出発地点はティルスで、目的地はガリラヤ湖(31)。その間の「シドンからデカポリス」は、一言でいえば大回りです。主の真意は、ご自身の宣伝ではなく、「神さまの訪れ」をそれぞれの地に知らせることでした。主が立ち寄られたユダヤ北側の地域は昔、南側の地域から「見捨てられ」、更に北方の外圧に「侵略され」た土地。主はその地に立ち寄ることを通し、神さまの不変の愛を知らせたのです。
その主の姿は、「ガリラヤ湖(32)」の町でも同様でした。まずこの近辺の人々は「聴覚、言語障がい」の人を主のもとに連れ、「手を置くように」願います。ここから二つのことが分かります。この町の人にとり、この「障がい」の方は大切な仲間であったこと。また、当時の医療行為は「呪術的」であったこと。主はこの人を人々から個別に連れ出し、当時の医療行為を行った後、語り掛けます。自身の言葉がこの方の耳と心に届く、との確信ゆえです。
この人にとっては、主との出会いは晴天の霹靂と言えるでしょう。良くしてくれる町の友から、導かれ、道を引かれて、主と出会えたのですから。信仰的な姿、儀礼的な仕草もなく、ただ導かれただけです。ここに私たちは、自身の昔を見出すかもしれません。主への隔てを持っていた私たちに、人を介して主が語って下さった。その私たちも、かつても今も、「開け」のみ言葉を聞くのです。み言葉に心を開き、主に心を開かれ、この一週間を歩みたい。