8/29(日)の防府チャペルの様子です。
手前のお花は、教会の敷地内にある納骨堂のそばに咲いたユリ。
外に見てみると、つぼみの状態のユリがすっくと立っていました。
ユリはキリスト教会では「新しい命」「復活」の象徴となります。
それが納骨堂のそばに咲くことの意味をかみしめています。
今週、来週の予定は以下の通りです。
今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
マルコによる福音書7: 1~8, 14~15, 21~23 (新共同訳聖書、新約74ページ)
■ 説教 「ルターも病に苦しんだ」
この世全体が「病に苦しむ」状況が続いています。「隣人愛」の具現化が教会に託された使命ですが、その遂行は、正直に言えば、悩みは尽きません。今春「ルターのペスト書簡」が翻訳、「隣人愛」に基づく公衆衛生が示さました。ルターも少なくとも「第五派」のペストを体験しました。「生活習慣病、結石、痛風」もあります。日課の大枠は「公衆衛生」、出エジプトの旅路で定められた「規定」が、宗教者たちに恣意的に用いられていたのです。主の問題提起はそこでした。
マルコ福音書では既に3章で、主に「気が変だ(21節)」や、「蠅の王(22節)」という見方が確定していました。ご実家から、身内の人々が取り押さえに来て、家族も心配するほどでした。日課ではついに、査問する人々がエルサレムから来ました(1節)。名目上は、公衆衛生の規定遵守を迫る立ち位置で、実態はいわゆる「手洗い警察」でした。距離も考え物です。彼らの出発点はエルサレム、到達点はガリラヤ。約100キロの道のりがありました。
律法の衛生規定は、元来、旅路の中で同胞や自身を守る意味合いで、隣人愛のための規定でした。しかし主が見たのは、自身らのため長きを踏破する学者たち、及び、学者たちに経費を付けて送った指導者たちの姿でした。ここに隣人愛はなく、むしろ規定を他者に、自分本意のため使う、愛から離れた姿がありました。主がイザヤ書を引用された(6-7)その根底には、彼らとその背後にいる人々に、愛の欠如を問う思いがあったのです。
15節「人の中から出てくるものが人を汚す」21節「人間の心から、悪い思いが出てくる」という主の言葉に向かい合うとき、私たちの心に真の悔い改めが導かれます。22節に記載の具体的な事柄は、人としての生に不可分と言えます。これらを持ちつつも、「学者たち」は主や弟子たちに、正しさを求めていました。改めて私たちは、隣人愛の前提を思い出したい。「互いに愛し合う」その前提は、主イエスが私たちを愛される。そこなのです。