2021年8月11日水曜日

8/7.8 礼拝と礼拝堂

 

8/8(日)、徳山チャペルでは礼拝が行われました。

聖壇の布は、赤から緑へ。

こちらは同日午後の防府。礼拝後、風が強くなってきました。

肺炎のため、了承していた方が礼拝に集われました。

今週、来週の予定は以下の通りです。

8/11 水曜日  六日市チャペル礼拝は、家庭礼拝となりました。
 
8/12 木曜日 12時 牧師 柳井市「一粒の麦」
 
8/14  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
8/15  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝 中島共生牧師
       水原牧師 大阪府出張
 
8/18 水曜日  六日市チャペル礼拝は、家庭礼拝となりました。
 
8/21  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
8/22  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝 
  
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

  ヨハネによる福音書635節、41-51 (新共同訳聖書、新約175ページ)

 説教            「命のパンに養われて」

 ヨハネ福音書記載の時代には、「聖餐式」の原型は成立していたと推測できます。35節の「私は命のパンである」、来週の54節「血を飲む」との言葉がヒントになります。「血肉の分かち合い」は、キリスト教では「力の授与」ですが、別の見方では「怪しげな習慣」と聞こえます。今週から3週に渡るヨハネ6章の講解は、主の気持ちの中に生きる弟子たちと、対峙した時代の人々との衝突の記録です。そして、現実を生きる私たちへの使信もあります。

 

 いわゆる「五千人の給食(6:1-15)」に続く脈絡で主は、「私は天からの、命のパン」と言われます。「命のパン」とは、頂いても空腹を覚える「腹を満たす食物」ではなく、「心を満たす食物」と解釈できます。「霊的な食物」とも言い得ます。ところがその発言に、民族や人種としてではなく、主への反対者という意味合いの「ユダヤ人」が異議を「つぶやく(42)」のです。趣旨は「この人はヨセフの子で父母も知っている。天からのパンとは何か (43)」と。

 

 この批判は、主の時代には「一神教の立場からの非難」であり、ヨハネの時代には「神と主イエスを同時にあがめることの非難」で、共通するものです。いわゆる「三位一体論」の根底には、主イエスが個々の人々を支え、力づけたという福音書の諸話に見出すことができます。その主は、言葉を借りれば「天からの方」でありつつ、「この世に下った」神の子(ヨハネ316)でした。その主が定めた聖餐式こそ、初代教会の人々の力だったのです。

 

 「信じる者は、永遠の命を得ている(47)」は、上掲の聖書を思い起こさせます。永遠の命に導かれるその日からはもちろん、今日からの日々も同様です。そもそも、主が不在になるという「現実」に向かう弟子たちに分かち合われたのが「最後の晩餐」であり「礼拝」でした。今日は、主の庭である教会に集います。そこから離れる週日が始まります。「命のみ言葉」としての主は、この週の日々も私たちを愛し、支えて下さることを、この日は覚えたい。