7/13-14と、水害のあった美祢市でボランティアをしてきました。
活動した小学校にあった銅像。「希望」という題名です。
学校裏山からの土砂は、小さな小学校の敷地を埋めていました。
それを、様々な団体の方々と片付けてきました。
梅雨明け間近と思える、午後の強烈な日差しがありました。
今週、来週の予定は以下の通りです。
7/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
7/25 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝
7/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝7/30 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
◆マタイ 13: 1~ 9&18~23 (新24)
■ 説教 「置かれた場所で咲けますか?」
「種蒔きの話(1-9)」には、「解説(18-23)」があります。解説では「道路/石地/茨」に蒔かれた「もの(人)」が示唆されています。「種蒔きの話」では、蒔く人は神さま、蒔くのは「み言葉」。人はそれぞれ、み言葉を「置かれた様々な状況」で受け止める話です。この手は、コヘレト書「人生の時(2章)」に類型を見られます。コヘレトは、生に起こる/起こり得ることを「神の定めた時」とします。マタイはコヘレト以上に、厳しい現実を描くのです。
聖書は、私たち自身や、知人、隣人の現実、いわゆる「茨の道」と呼ばれる道を歩まざるを得ない人を思わせます。主の時代はどうか。私たちが実感するように、「道路、石地、茨」の生があります。若くして命の危機があり、貧しい所に育ち、成長が種々の要因で阻害される現実。主はそれをまず、例えを通して語りかけたのです。「自分は、私は」という思いが、湖のほとりで聴く人々の心に響いたと思います。「その私が、神さまにどう映るのか」
当初は「神のみ手の種」が、あらゆる土地(人)に蒔かれます。しかし人は「突然の出来事(鳥)」に妨げられ、「力添えを無くす(石地)」で弱り、「見通しが立たない(茨)」日々を迎えてしまうこともある、主は例えでそれを語ります。しかし主は、話をするだけではなく、関わります。福音書で「道路、石地、茨」に蒔かれたような人と出会い、その人らしさが得られるよう関わります。私たちにも、人や事柄を通して「私たちの根、本質」に神は関わるのです。
主の関りの中に生き、生かされる私たちです。本編の最後には、「倍増する種」があります。ここから、神が蒔いたみ言葉や、み言葉を聴く人を増やすとの、使徒たちの時代の伝道や宣教に結び付けられます。ただ、元来の主は「人々の心に寄り添う」。いわゆる収穫は一つの結果論です。主が私たちをどこに蒔き、今の私たちを妨げるものは何かそれぞれです。私たちの窮状を主はご存じで、共に留まります。そこに立ち、他者のため生きたい。