本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
徳山は、先週来からの「裏ヤブ」剪定の良い影響が礼拝堂にあります。
明るくなった、というお声を頂いています。
本日の献花も、朝の光に映える青い花でした。
礼拝後、徳山では愛餐、柳井、防府ともに教会の交わりが行われました。
来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。
6/14(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
6/11(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。
本日の説教要旨は、以下の通りです。
【マルコによる福音書2章13-17節】
私たちの人生には「試練の時」が到来するものでしょう。試練とは当座は本当に大変なものですが、乗り越えた、終わった時には幸いを思います。今日の聖書は徴税人レビの物語です。彼は「収税所に座す」と表現されています。当時は、彼らのような職業は「売国奴」との評でした。それは、徴税人という権威を傘に着て、不当な徴収を行っていたからです。座すレビは、周囲の目線を「針」のように感じたでしょう。
レビは、主から弟子入りの言葉を頂きます。するとレビは主に従うのです。レビの鮮やかな転身が印象に残ります。伝統的なこの聖書の箇所の解釈は、「私たちも同様にしよう」というものです。かつて教会は「聖と俗」の言葉を多用しました。「人は俗世間に住む。俗世間をひと時離れ、教会という聖空間に来よう」というものです。分かりやすいものですが、主は果たして、その意図でお語りになったか。違うと考えます。
その後の主の行動を見たい。主はその後、徴税人たちと会食をします。とやかく言う人々は登場しますが、主は継続されます。主はレビを、聖なる集団に入れるとの意図は無かったのです。食事を共にする、すなわち自らがレビの世界に入ったということなのです。主がレビに近づいたということです。ここから覚えたいのは、聖なる生活をしよう、ではない。私たちは、今のそのままの心持ちで主を迎えることです。
本来誰もが、主を迎える立派な生き方は出来ないのです。しかし誰もが、主を迎え得るのです。主は誰のもとにも来られるのです。主は人の心をより好みしません。それが今日の聖書の一つのポイントです。もう一つあります。マタイの今までの徴税人としての生活は無駄ではなかったということです。生活の中で思う所は多くあったでしょう。厳しさがあるから恵みを知り得るのです。だから無駄なものは何一つない。かつての試練の時、主は私たちを助けた。だから今日の私があるのです。覚えたいですね。