2026年8月18日火曜日

8/15柳井、8/16徳山、防府

 

 8/18(火)徳山礼拝所の朝。

 長かった夏休み(ただし、子どもたちのみ)もようやく後半。

 ラストスパートです(ただし、大人と子ども含む)。

 8/16(日)防府礼拝所の献花。

 鉢植えのかわいらしいお花です。


 8/15(土)柳井礼拝所の献花と礼拝堂。

 礼拝前には、水路の小魚を獲りました。

 

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


8/19 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

8/22 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

8/23 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

8/26 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

8/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

8/30 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

8/16(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第12主日 説教 

マタイ福音書1521-28節 「外にいる者への恵み」

水原一郎

 主イエスはティルスとシドンの地方へ退かれました。そこはイスラエルの外、異邦の地です。約束の民の中心から離れた場所で、一人のカナン人の女が叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」彼女は民族的にも宗教的にも外部の人間と見なされていました。しかも彼女の娘は「悪霊に苦しめられている」と受け止めていました。つまり彼女には、ユダヤの枠組みの中では、「ラビ」と見なされた主イエスと語る資格も、また背景もありません。ただし、切実な求めだけがあるのです。ここに、神さまの前に立つ私たちの姿があります。神に差し出せる功績を持たず、ただ憐れみを求めるしかない存在としての姿です。彼女もまた、主イエスの前に立っています。

___________________________________ 

 しかし主は答えられませんでした。沈黙です。さらに弟子たちは「叫び続けていますから、追い払ってください」と言います。主は続けて言われます。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」これは慰めではありません。旧約聖書の世界観に基づく、救いの順番と見なされたものです。神の約束はまずイスラエルへ向かう。その枠の外に彼女はいると言うのです。私たちもまた、神の沈黙を経験することがあります。「神の沈黙」の意味を悟ることは難しいのです。ただ彼女の姿勢に、その受け止め方を見出せます。「なお神に向かう」のです。退かないのです。ひれ伏して言います。「主よ、お助けください。」信仰とは、憐れみを求める心です。

___________________________________ 

 主イエスは、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げるのはよくない」と言われます。ここには、イスラエルにまず与えられる恵みの順序が示されています。しかし主イエスは、彼女を食卓から完全に追い出す言葉として「小犬」という言葉を用いているのではありません。むしろ彼女は、その言葉の中に残された小さな場所を見いだします。「主よ、その通りです。しかし、小犬たちも主人の食卓から落ちるパン屑をいただきます。」彼女は主イエスの恵みを、自分には関係ないものと受け止めなかったのです。むしろ、食卓の下にいる小犬にも届くものであると。彼女は、神さまの恵みが一か所、一民族に閉じ込められるものではないことを、思いがけない仕方で示したのです。」

__________________________________

 すると主は言われます。「あなたの信仰は立派だ。その願いどおりになるように。」ここで称賛されているのは精神的な強さではありません。彼女の信仰は、自分を持ち上げたことではなく、主の憐れみから離れなかったことにあります。恵みは境界を越えました。イスラエルから異邦へ、内側から外側へ。これは偶然の例外ではありません。やがて主イエスの十字架において完全に現れる出来事の前触れです。キリストはゴルゴダの門の外で十字架につけられ、外に追いやられました。その主イエスによって、外にいる「異邦人」を始めとする全ての者が、神さまの懐に迎え入れられるのです。恵みは内側に閉じ込められません。キリストご自身が境界を破られるからです。

___________________________________ 

 私たちもまた、誇れる信仰を持つ者ではありません。祈りがすぐに聞かれる保証もありません。その私たちに、カナンの女性が示すのは「主イエスから離れない」という姿勢でした。むしろ、主イエスがカナンの地方に来られたという姿です。礼拝とは、自分が神さまのみ前に相応しいかどうかを確かめるものではありません。自分ではどうにもならない私たちの所に、主イエスが来られることを覚えるものなのです。私たちを生かすのは、さ迷う私たちに届く主イエスの恵み。支えられて、今日を生きるのです。