2020年10月18日日曜日

10/17.18.21 礼拝と教会礼拝堂

 

こちらは、六日市礼拝で用いられている十字架です。

こちらはこの時期のお花の集合。もみじ、ヒガンバナ。

徳山チャペルとなります。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

10/20 火曜日 15時 牧師出張

10/21 水曜日 19時 六日市C礼拝

10/23 金曜日 休会  聖書を学ぶ会
 
10/24 土曜日 15時 柳井C礼拝 

10/25 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

 説教              「あなたのものは、神のもの」  

マタイによる福音書 22: 1522 (新約43ページ)

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい(21)」の言葉が、聖書にある「納税議論」を終わらせた言葉となります。この言葉の契機となった「銀貨」に主の知恵があるのですが、それは後程。「皇帝のものは皇帝に=税はおさめよう」は分かりますが、「神のものは神に」とは、① 主のお気持ちの中では何を意味するのか。そして② 私たちの脈絡の中では、「神のもの」とは何を現すのか。この日は、その二つに絞ってみ言葉を聞きたい。

 

それで全体的なことから。今日の聖書も冒頭からキナ臭さが漂いますね。「言葉尻を捕える、罠にかける(15)」という表現、「ファリサイ派とヘロデ派の協働(16)」という箇所です。仕向けられた納税議論も、「納税が是」と言うならばヘロデ派は喜び、「納税が非」というならばファリサイ派が喜ぶ。主の返答次第で、主の今後が既に規定される質問、「言葉尻」を捕える質問なのです。対する主が「銀貨を提供させる(19)」これは妙手です。

 

① 「皇帝のものは皇帝に」の返答は、まずヘロデ派の矛を抑えました。そして「銀貨」こそが問題でした。ここは神殿の境内。そこにあってはならないものが、「皇帝の像と銘が刻まれた銀貨」でした。「ファリサイ派の弟子(16)」だからかもしれません。「金を見せなさい(19)」との主の言葉に「無理です、ここは神殿です」と答えるべきだったのに、彼らは「悪意に気付かれた主」の掌の上にあったのです。だから彼らは「立ち去った(22)」のです。

 

いかがでしょうか。主を貶めようとした彼らが逆に「墓穴を掘った」のです。神の神殿を恣意的に用いず、神の思いを正しく聞く。それが「神のものは神に」の意図する所です、そしてこの日の聖書で向かい合っていた人々の思いを主は全てご存じだった。このことが② に結び付くと理解します。私たちは「神の作品(エフェソ210)」であることを誇りたい。生の過程の葛藤は私たちだけが担うものでない。「神のもの」だから、委ねつつ、生きたい。