10/11 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
「人 間 本 来 無 一 物」 マタイによる福音書 21:33~46 (新42)
「聖書にこう書いてある(42)」以下の引用の原典は、詩編118篇(旧958)となります。その続きは「今日を喜び祝い、喜び踊ろう」とあります。「与えられた今日、いのち、出来事」を思うことは、人生の過程では中々少ないのかもしれません。しかし、自分自身や身近な諸事を通して、「今日」への感性が研がれることもあります。今日の聖書も、主とユダヤ教宗教者の「論争」の聖書です。が、その論争を通して示されることを、聞きたいと思います。
殺伐とした「ぶどう園」ですね。例えは、「主人(33)が神さま、農夫(33)がユダヤ教宗教者、僕たち(34-36)が旧約の預言者たち、主人の一人息子(37)がイエスさま」です。主人は農夫に「ぶどう園の管理」を託します。ところが農夫たちは「管理」をなおざりにします。僕たちに乱暴し、「相続財産(38)」のため主人の息子を殺すという、人道的にも法的にも意味不明、支離滅裂に振舞うのです。主人の行動を、主は聞き手に問います(40)。
聞き手である「ユダヤ教宗教者(21:23)」は、ぶどう園の主人の怒りを主に伝えます。主は彼らの言葉を受け取り、「ユダヤ教宗教者」たちへの厳しい言葉を続けます(43-44)。彼らは怒り、主を捕まえようとしますが、留まります(45-46)。彼らが怒ったのは、これまでの経緯もありますが、主の話の内容にも理由があります。「神さまから委ねられ、託された働き」をないがしろにした「農夫たち」に、自分たちが重ねられたことに気付いたのです。
当時の宗教者への批判はともかく、私たちはどうか。旧約のヨブが語るように、「人間は本来無一物」でした。しかし生の過程で、多くが賜物として備えられます。「全ては神さまから頂き、お預かりしたもの(歴上29:14)」。しかし、与えられたことを失念する。あたかも、創世記で「支配=管理の務め(創1:26)」を与えられた人が背いたように。周りを見渡せば、いろいろな思いが飛び出て来ます。その中で「今日を喜び、祝う」との詩編118の思いを得たい。与えられた今日の私のいのち、今日の出来事に、しみじみと、感謝したい。