徳山チャペルの礼拝堂。椅子が四方に寄せられた状態です。
朝の光、が良いですね。
こちらが防府チャペル。
六日市チャペルは、個人の商店を用いて礼拝をしていますので、なかなか写真が…。
10/4 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
「そのままの姿で、良い」 マタイによる福音書 21:23~32 (新41)
宗教の本質的な役割は、人間の「根源的な問い」に向けて、道筋を示すものです。そして「根源的な問い」とは、「生老病死」の事柄や、旧約のコヘレト書3章が語る「人生の時」と表現できます。世間を騒がす事柄や、自身や身近な事を通して、その問いが示されるものです。ことにその問いは、私たちには想像することが難しい(昔の、今の)職種や環境の人々に現れると思います。「洗礼者ヨハネ(32)」の活動は、その人にも向かうものでした。
「徴税人や娼婦(32)」いずれの職種も、当時存在し、従事する方がいたことは確かです。が、その職業は、宗教的な「罪」と定められたものでした。しかし洗礼者ヨハネは、彼・彼女のみならず全ての人に「悔い改めよ、神の国は近づいた」と告げたのです。一定数の「徴税人や娼婦(32)」が洗礼者ヨハネや、その理念を受け継いだ主のもとに集いました。「神の接近」とは、彼らが仕事や生活の中で抱いた「生老病死」の問いに対し、遠回しな「答え」となりました。つまり「近づき、寄添い、支え、導く」神さまのみ姿そのものでした。
聖書で、「ぶどう園の主人(28)」は息子たちを自分の園で働かせようとします。兄息子は、当初は断ります。「働きたくない」「相応しくない」「めんどくさい」などの理由を想像します。しかし「考え直して(29)」働きに出ます。「考え直す」は「悔い改め」とほぼ同義の言葉が用いられています。一方、弟息子は調子よく「承知しました(30)」と言いますが、口だけでした。「徴税人や娼婦」が長男、「祭司長や民の長老」が次男という設定は、聞き手に対する主の皮肉と言えるでしょう。差別を助長する宗教者たちへの、主の憤りがあるのです。
さて、この話の中に私たちは何を見出すか。「職業上の葛藤」が「徴税人や娼婦」の心にあるものとすれば、私たちも抱くことがある。増して、「職業上の葛藤」を「生の過程の中の戸惑い」と言い直せば、より重なる。「悔い改め」というと、何か「礼拝中の事柄」「罪の事柄」と見做されるかもしれません。が、これは「神さまと向かいあう祈り」とも言い得ます。「生涯が悔い改め」とはルターの言葉です。それが、「根源的な問い」への答えなのです。