柳井チャペルの裏側、畑が広がっています。
「一粒の麦」の利用者の方々が用いています。
アゼは畔、クロは畔。いずれも「田を半分にする」ということです。
9/27 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ 説教 「神の思いと人の思い」 マタイ 20: 1~16 (新38)
午後5時の夕日が、広場を照らしていました。そこに、働く気持ちはあった、だが「誰も雇ってくれな(7)」かった労働者たちがいました。彼らに近づく、ぶどう園の主人。主人は労働者たちを、労働者たちは主人を見知っていました。「ぶどう園に行きなさい(7)」その言葉で、労働者たちは被雇用者と立場が変わりました。兎に角も、収穫作業に就きます。一時間後、賃金の支払いの時となりました。彼らには、一日分の日給が支払われたのです。
この日の聖書は、「流れ」で言えば「富める若者」の続きになります。「自らの財産に執着した」若者への「あてつけ」ではありません。あの若者に対しても届けと言わんばかりに、神さまの懐の広さが示されています。冒頭、神さまがぶどう園の主人に例えられています(1)。この主人は「ぶどう園」の働きのため、「町の広場」を気にし、足しげく通うのです(3.5.6)。主人の「ぶどう園」には、どんな人にも応じた、携わり得る働きがあったのです。
主人のその眼差しと歩みが、夕方5時の広場にも向けられます。そして招いた、得たのが「誰も雇わない(7)」人々でした。この人々が1時間、どんな働きを為したか書かれていないことは大切です。主人はここで、「何が出来たか」ではなく「ぶどう園に居たこと」を重んじるのです。一日分の支給を得た「夕方5時組」は、喜んだことでしょう。そしてもっと喜んだのは、「朝6時組」でしょう。「もっともらえる?」しかし「朝6時組」への支払いも、等しい1デナリオン。不等労働量の後の、賃金の均一措置に不平を漏らす「朝6時組」でした。
午後6時の夕日が「朝6時組」の手元を照らしていました。翌日、彼らは朝9時くらいまで、ふて寝をしてから広場に出向くかもしれない。だが、後年彼らも気付くでしょう。朝6時には動いていた、元気な体が徐々にその力を失うことに。自らの体と気持ちの衰えに。しかし、その時も、変わらず「主の瞳、眼差し」が「あなたの存在」を見つめるのです。当時、ユダヤでは夕方は一日の終わりと翌日の始まりでした。そこに、明日を生きる糧である「1デナリ」が与えられる。それは、あなたの手にある。だから私たちも、他者の存在を喜びたい。