柳井チャペルの礼拝堂です。
今も聖霊降臨節、だから聖壇は緑となります。
これは、待降節か四旬節ですね。百合は一年中とれるようになりました。今は、9/13(日)の午後。徳山チャペルは夏の日差しとなりました。
これから防府チャペルの礼拝です。
9/20 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
「我らの罪をゆるしたまえ」 マタイによる福音書 18:21~35 (新35)
「何回、赦すべきなのでしょうか(21)」とのペトロの問いは、直前の主のお言葉への応答です。「相手の言動に心痛める時、割り切りつつ、心を一つにする(15-20)」勧めへの追質問が今日の聖書です。「相手の言動」による心傷は、持続的ですね。ペトロは「7回は無論、1回も赦せない」「同害報復(レビ24)」を述べたい思いは伏せた。ペトロの問いは、人は「赦せるか(相手に神の赦しと保護を祈り得るか)」との立ち位置に結び付くのです。
ペトロの意図は「回数」でなく「完全な赦し」と思われます。しかし「7回」という、数えることが出来る数値を上げたことが、「8回目は?」の問いに結び付くことを主は懸念されたのでしょう。「7の70倍」との大数を上げます。「仮定を問うたペトロに(21)」「完全に赦す」との勧めを告げられます。ところが、この勧めに続くたとえ話はいかがでしょうか。「相手を完全に赦せなかった」話なのです。主の「完全に赦す」と「例え話」は、どう結び付くのか。
例え話の中の「一万タラントン」は1兆円。「100デナリオン」は100万円。数え切れない「1兆円」を赦されたものが、仲間の数え切れる「100万円」を赦せないのです。この姿は、確かにごく一般的な「神さまと人」の姿を言い当てていると思います。例えば、私たちが今、根に持っていることは何か。憎んでいる人はいないか。赦されているにも関わらず、私たちは他者を赦せない。「主の祈り」が含める葛藤の中に生きています。しかし主は元来、一般論ではなく目前のペトロに向けてこの話を為さったのではないか、と思われます。
ペトロの問いは「1兆円を赦されたから、100万円を赦すことができる」という安易な前提に立ったものでした。そこに「神さまと人の赦しの力量には差がある」という話がなされます。そもそも、これはペトロの「罪を犯したなら(21)」という仮定に立つ話でした。仮定はでなく、「赦せない」という現実の葛藤に生きる者を、主が支えられます。だからこそ私たちは、今日特に謙虚に、主のみ言葉に従う決意を新たにしたいのです。主の祈りの中の一節「我らの罪を、ゆるしたまえ」というみ言葉です。ここに覚え、祈り、週日を過ごしたい。