まもなく柳井チャペルでも、全聖徒主日の礼拝の用意が始まります。
聖壇の色は、白となります。
今、外ではそこかしこに彼岸花が咲いています。
10/18 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
「後味は悪いが、美味しい」 マタイによる福音書 22: 1~14(新約42ページ)
「いつくしみ深き」作詞者の青年は、不意の出来事に翻弄された人生を送りました。その彼の人生を、全ては語れません。しかし「婚約者を二人、事故と病気で失う」過程の悲しみは察して余りあります。良いことはともかく、「心傷むこと」について私たちは、なかなか受容することは出来ません。かの青年は、自分以上に失意の母を慰めるため、信仰の思いを文字化し母に送り、後年それが讃美歌になった。信仰の力でしょうか、立派と思います。
マタイ福音書が編集されている時代、エルサレム陥落(70年)とその前後の生活上の支障は、信仰を続ける上での大きな葛藤となったと思います。聖書では「王が町を焼き払った(7)」という行為が、歴史上のエルサレム陥落を現している。これに限らず、ユダヤは過去、「バビロン捕囚」などの「困難な」出来事に直面して来ました。時にはこれらの困難を、先の表現を用いれば「心傷むこと」を「罪」の故と考えて来ましたが、果たして主はどうか。
例え話第一部(1-8)の中で、「婚宴への招待」を無視し、乱暴した人々(5-6)の行いは眉をひそめさせます。主は、「不埒な行いである罪」の故に、主催者が怒る話をなさいます。第二部(9-14)でも、「婚宴の状況を解さない、的外れ」な人物が、追い出されて歯ぎしりする「=心を傷める」ことが仄めかされています。「神さまは、人の行いに応じ、特に罪に応じ報いる」のでしょうか。困難や、そこから生ずる心痛は、自らの行いが原因なのか。
主は「旧約な第一部」を「第二部」で逆転されます。当時の婚宴は、主催者が礼服を用意していました。歯ぎしりの彼は、己の一張羅にこだわったのです。突然の招待、言い換えれば「出来事」にうろたえる際も、主は備えて下さる。「用意された衣服を着る」つまり後年の表現の「キリストを着る(ローマ13:14)」ことが、十字架と復活を越した今の主の使信なのです。「主が共にある」ことが「いつくしみ」の彼を支え、あなたの週日を導くのです。