2018年7月1日日曜日

6/30.7/1 不思議な海と献花と礼拝

  6/30の益田小浜の海です。妙な雲でした。
6/30 小浜の海。雲からの光がきれいです。
  7/1 徳山献花その1 庭の草です。生命力を感じます。
 うしろのルター新聞は最新のもの。
  7/1 徳山献花その2 先週の花に庭の草木を加えたもの。

7/1 徳山献花その3 こちらが今日捧げられたお花です。
 T姉のお花、S姉のお花、K家のお花が加えられた合作です。

 
聖霊降臨後第6主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。

1 本日の礼拝には、ご家族の帰省の為欠席の連絡がO家から、勤務病院の研修旅行の
  ための欠席連絡がH家からありました。また、妹君が緊急搬送され、その付添いを
  されているT姉からも連絡がありました。
  また「RSウィルス」にかかった幼子からの休み連絡がありました。
  それぞれの方々のために祈りがなされました

2 本日の礼拝は、奏楽者が不在でしたが、それでも皆さまと御一緒に賛美を
  合わせることができました。
 
3 礼拝では、会員の交通安全を覚えた祈りが特になされました。

4 礼拝後には、ちらしずしとお澄ましの愛さんを頂きました。  

5 礼拝には、近隣の子どもたちも集いました。
  今も教会の庭では、暑さの中ですが元気よく遊んでいます。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

7/3 火曜日 11時 牧師 柳井出張
       15時 聖書の学び
7/7 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
7/8  日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。


【マルコ福音書31-6節】
 イエス・キリストというお方は十字架に架けられた。それは聖書が語ることですし、そのイエスのことは、聖書以外ではヨセフスが「ユダヤ古代史」という古典書物に記載しています。このマルコ福音書は冒頭から、主がどのように十字架へと「架けられていったか」を記します。言い換えれば、主と人々との関係が悪化していった、その一連の出来事が福音書冒頭に記載されているのです。今日の聖書などはまさにそのことの極致とも言えます。

 時は安息日。「命に関わる病気」以外は癒してはならない、という決まりがありました。「手が萎えていた=マヒしていた」その病気をどう見るか。当時の宗教者は「命には関わりない」と考えていたのです。しかしその当人にはどうか。入られた会堂で、主はこの人が「隅に」追い遣られている状況を目の当たりにし、癒されるのです。その光景を、悪い意味で心待ちにしていた人々が、当時のユダヤ宗教者たちでした。「悪い意味で」とは、主の働きを契機にして、主を訴えようというものでした。萎えた人は、そのための「道具」だったのです。

 病ほど、当事者と周囲の人々の認識に違いをもたらすものはありません。聖書が病の渦中の人のことを語りますから、そこに限って言えば当事者は「今すぐに直してほしい」と考えるのです。「周囲の人」は「大変だけれど、癒しは明日でも良いか」と考える。しかし主は聖書で、病の当事者の心持ちをご理解下さいます。病んでいる人を即座に癒す。と同時に、人を人として見ない宗教者、ご自身を訴えるための道具と見做している宗教者の「頑な心」に対して、厳しい言葉を言われるのです。しかし宗教者はますます主に反発を募らせます。

主は「当事者」とされた人に何よりも優しさをもって臨まれました。「手を伸ばせ」あえて言えば私たちの手は伸びています。これまでの人生、今の人生、皆さんは関りの手を伸ばしています。しかし今、それぞれの状況の中で、縮こまる時、抱え込む時もあります。主は言われます。「手を伸ばせ」と。勇気をもって伸ばした時に、そこに必ず私たちの手を待ち受ける愛の神さまの姿を見出すのです。祈り、相互に関わるこの群れでありたい。