きちんと名前があるのでしょうが。
6/23 益田小浜の海。今日は駐車場からの遠景です。
この駐車場は、近くの神社の参拝客用のものですが、ま良いですよね。
6/24 徳山礼拝玄関の献花。
6/24 礼拝後の作業で、ネットまで張られたゴーヤの苗。
牧師室のクーラー経費節減のため頑張ってね。
6/24 一寸早いひまわり。
乾くのを待っている説教題たち。
聖霊降臨後第5主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 礼拝前には、自治会の御用事のためにお休みされるという連絡がK家から、
また「ヒトメタ…ウィルス」にかかった幼子からの休み連絡がありました。
それぞれの方々のために祈りがなされました
2 礼拝には、I市から来られた方、K市から来られた方が集われました。
3 礼拝後には味噌汁、そして白ご飯、ぬか漬け、ヒジキ、筒かまを頂きました。
4 また礼拝後、外では「ゴーヤのネット張り」作業が行われました。
5 茶碗洗い、説教題看板書き、送迎など、教会が皆さまのご奉仕によって
成り立っていることを思わされます。
今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。
6/26 火曜日 15時 聖書の学び
6/30 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
14時 益田教会礼拝
19時 六日市礼拝
7/1 日曜日 10時45分 徳山礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。
【マルコ福音書2章23-28節】
「安息日」とは耳慣れない言葉です。「息を安んじる日」と書くこの日は「休日」を表すのです。聖書の古事に由来するこの日は主の時代、様々な罰則規定に覆われている日となっていました。それでは、なぜ休日が罰則規定に覆われるか。それは人間のありのままの姿とも重なる問いに結び付いて来るのです。それは古人だけでなく、私たちの姿でもあります。
説明からになります。本来「安息日」は、通常の仕事を休み「神さまのことを思い起こす日」であり、端的に言えば礼拝に預かる日という理解が主の時代に為されていました。しかし「原理原則」だけでは生きられないのが人の常です。原理原則を分かってはいるのです。それに沿うことが出来るか否かは別の問題です。その内「安息日に仕事をする」のが公然となったのです。安息日の趣旨が蔑ろにされていることに憤慨した当時の宗教者が、安息日の規定を作った。「罰があれば人々は安息日を趣旨に沿って守るだろう」と考えたのです。
人間関係のつきあいもあります。当人の気持ちもあります。なのに「礼拝に来なければならない」等と言われれば悲しくなることでしょう。主はそういう、人を悲しませることは言われませんでした。むしろ、当時の宗教者の作り上げた規定に悲しみを覚える方々と共にあったのです。聖書には「麦の穂」を摘まむ弟子たちの姿、その仕草を「違反」と告発するファリサイ派(宗教者)の姿が記載されています。告発された弟子たちをかばって主は、「緊急措置」の古事の例を挙げて助けます。それがどのような結果になるかは直後の聖書に顕著です。
直後の聖書のことは来週の扱いになりますが、「安息」についての主のお気持ちは私たちに幾つかの示唆を示します。まず、家や出先や旅行先でも「リフレッシュ」はかなうのかもしれません。しかしそこには「私」の楽しみ、「私」の現実を見せられます。「教会」は、様々な現実に追われる私たちに、神さまとの関わりを思い出させます。現実は、私たちを奮起させもしますが、落胆、気落ちさせることもあります。そんな時私は、皆さんと共に礼拝を守ると安息できるのです。「神さまはあなたを愛している」の言葉を分かち合えるから。