11/18 ついに暖房を入れました。さすがに寒い朝でした。
今週、来週の教会行事予定は以下の通りです。
今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。
11/20 火曜日 午前 水原牧師 柳井
15時 徳山聖書研究会
11/21 水曜日 地区女性会連絡会 厚狭
11/24 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。
14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
19時 六日市礼拝 通常通り行われます。
11/25 日曜日 10時45分 徳山教会礼拝
礼拝後、クリスマス飾りつけ
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マルコ 12章41-44節】
2レプトンとは、今の貨幣価値に直すと50円です。貨幣単位に直すと一円玉2枚です。私たちは、50円玉や1円二枚ならば捧げられるかもしれません。しかし金銭とはあくまでも主観的なものです。この女性にとっては、2レプトンが(手持ちの)全財産でした。私たちは、財布を丸ごと献金箱に入れることが出来るか。とてもそれは出来ない話です。しかし主は、私たちを落胆させるためにこの話をなさったのか。見て行きましょう。
まず、主はこの女性の何を誉めたのか。読んで分かるように「全“財産”を捧げた」ことですね。これが厄介なのです。「この女性が、全財産を捧げた。だから私たちも、財産を…」というように、み言葉の解き明かしの要点が「お金」に傾いてしまうのです。しかし主はがここで“財産”と言われたお言葉は、果たして“金銭”なのか。確かに主の言われた言葉には“金銭”という意味も含まれます。翻訳者は、場面が献金箱という背景から、主のお言葉も熟慮の末に「財産」としたのでしょう。しかし非才から言えば違います。
主の言葉として翻訳されている「財産」とは、多様に解釈できる言葉なのです。「生き方」「考え方」「在り方」などです。主が評価なさったのは、この女性が「お金」を捧げたからではない。置かれている状況の中で、自分に出来ることを考えて、その結果として捧げたということを評価なさったのです。主の眼差しには、当時の宗教者の一部にあったような「金づく」の考えはありません。むしろ、それぞれの状況を見て下さるのが主です。
それでは「全部」ささげたことはどうなるか。その答えもこの女性が示します。結論は「出来ない」「無理」という思いも捧げものになるということです。この女性が、2レプトンを捧げるにあたって、無心で捧げたということはないでしょう。今日や明日、今後を憂う気持ちの中で捧げた。当たり前のことですが、主は捧げものだけを見られません。捧げたわたしの心の中をも見て下さるのです。だから、私たちは「お金」だけを捧げません。むしろ、捧げた自分自身を、この一週間も用いて下さいとの祈りを捧げましょう。