これは、大人たちがツリーを設置し、子どもたちが木を飾りました完成形です。
11/24 六日市礼拝前に、深谷峡温泉に行きました。
深谷峡からの夕景です。
11/25 クリスマスの馬小屋です。手前の天使は、今週召天記念日を迎えられる
益田の会員の作品です。
11/24 深谷峡の橋上から見下ろした図。怖い。
11/25 礼拝後に、教会のおじさまたちが礼拝堂を飾りました。
これが徳山の礼拝堂です。
11/25 教会員が、散歩の途中で拾った木の実にニスと防腐処理をしました。
その木の実を、別の教会員がリースにしました。
左下のリボンは先代リースのリボン。
リースに巻かれているキラキラは、リース作成の教会員が、ご息女の幼少期に、
ご息女と共に作られたものとか。つまり、皆さんの合作ということです。
今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。
11/27 火曜日 午前 水原牧師 柳井
15時 徳山聖書研究会
11/30 金曜日 牧師 呉 安浦で奉仕
12/1 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。
14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
19時 六日市礼拝 通常通り行われます。
12/2 日曜日 10時45分 徳山教会礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マルコ13章24-31節】
聖書は「終末」を主の言葉として語ります。主の時代は、文字通りの「世の終わり」が来ることが信じられていました。終末思想がはびこっていたのです。その背後には、乱れる世の中と天変地異がありました。人々は現世にうんざりし、新たな世を待ち望んでいたのです。今日は、この終末思想が流行ることはないでしょう。むしろ終末の言葉は、個々人の地上の命の終わりとして、立場と視点を変えて語られるようになっています。
聖書冒頭の「天変地異」で語られていることの大半は「光が見出せなくなる」ことです。例えば私たちも、私たちの身近な人も、そのような知らせを、人生の終末に向けた「ある日」唐突に受けるのです。「光が見出せない」「先の見通しが立たない」思いに至ります。ちょうど2000年前のユダヤの人と同じく。「その時」と聖書は続けます。「人の子が速やかに到来する」苦難の折には、主が速やかにお出で下さり、渦中にある人を助けて下さるのです。「主が共にいる」という、当たり前の事がここで改めて語られるその意義は何か。
「先が見えない」とは、文字通りの苦難の時です。その苦難の時には、主への信仰を保つことは難しい。聖書は迫害を乗り越えて今日に至る書物ですが、中には迫害という苦難に耐えきれない人々もあったでしょう。その意味で私たちも同様です。今、苦難に直面している方があるとして、聖書はその私たちに語るのです。「主はそばにいる」と。今日この時、聖書の言葉を心に納めたい。不確定だけど、有事にはみ言葉を思い出したい。