7/24 徳山の礼拝堂です。
7/24 防府の礼拝堂。奥の電球が切れていたので、直しました。
7/23 柳井の礼拝堂。午後礼拝はなかなかの暑さです。
地面から芽を出したアサガオが、これほど大きくなりました。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
7/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
8/3 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
8/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカLuke 11:1~4 (新127)
11: 1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように御国が来ますように。
3私たちに必要な糧を毎日与えてください。
4私たちの罪を赦してください、
私たちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
私たちを誘惑に遭わせないでください。』」
■ 説教 「世界を結ぶ祈り」
「祈り」の定義は何か。神さまへの「語り」かけです。どんな内容でも、言葉化されなくとも(ローマ8:26)、私たちが神さまに思いを向けることが祈り、なのです。ただ、個々の祈りは「私が、私の」という側面が突出するものです。無論、それも祈りなのですが、それは「隣人(ルカ10)」を覚えることは少ないと言えます。主の弟子たちは、洗礼者ヨハネにならい主に祈りを求めます。神さまに、どう語りかけるのか。主の答えは、意表を突くものです。
そもそも主の時代、聖書とは旧約聖書のみでした。今でいう「旧約の神」とは、出エジプト20:5に端的にあるように「罰を下す神」「熱情の神」でした。人々はこの神さまに恐れ戦き、捧げものなどを捧げ、宥めたのです。主はその「恐れの神」をここで覆されます。そもそもルカ福音書での「神の立ち位置」は、「地に平和(ルカ2:14)」、人間社会への祝福と安寧を願うものです。主はその神さまの代弁者として活動し、「特異」な祈りを告げられます。
「父よ(2)」とは「アッバ」という乳幼児語です。なぜ、主が祈りに乳幼児語を用いたのか。神さまに対して、恐怖「例:お父様」は不要なのです。むしろ、子が親に寄せる素朴な信頼を「父よ」という言葉で示す勧めと言えます。「み名が…」は、「神さまが広くに大切にされるように」。「み国が…」は、「神さまが愛の関りを示されるように」、そして「罪を赦して下さい」と続きます。罰を下す神でなく、まず愛の神を覚えることが、祈りの骨子なのです。
宗教に関わる様々な報道が、特に散見される昨今です。ルター派キリスト教とは、金権宗教、因果応報思想を根底に置いて人を脅迫する教えに否を突きつけた歴史を覚えたい。私たちはこの祈りで、自ずと「隣人」を覚えています。「私たちに、日ごとの糧を」の部分です。心身の糧を必要としている方が多く居られます。自分のためだけでなく、必要な個々の名前を黙祷の内に挙げましょう。そして祈り、何らかの関りの中に育まれたい。