4/24は手帳を見ると防府礼拝奉仕、おそらく更新もままならず出発し、
その後スカッと抜けていたのでしょう。
5/1は東京入りの前日。こちらも抜けていました。
本日は徳山、柳井、防府で礼拝が行われました。
写真は久しぶり、徳山の献花です。
礼拝後には持ち寄りの愛餐会でした。
5/15(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
5/12(木)には、
益田14:00~ 礼拝、
六日市19:30~ です。
本日の説教要旨です。
【ヨハネ福音書17章20-26節】
伝統では本日は「母の日」です。讃美歌には、母の日に良く歌われる510番があります。神学者「アウグスティヌス」の母の祈りと言われています。偉大な神学者は偉大な放蕩息子でした。家出し、異教に傾倒し、女性と恋に落ち、未婚で父となり、放埓三昧。そんな母は、わが子のために祈るのです。その母の心情を読み取った讃美歌510番です。味わい深いものがあります。
主もまた弟子たちのために祈ります。福音書の16章まで主は弟子たちを「あなた方」と呼び教えました。17章で口調を変えて祈るのです。それは弟子たちのため、そして弟子たちの背後にいる人々のためでした。「全ての人を一つに」との祈りの言葉です。だがこの言葉は皮肉にも、直後の弟子たちには全く当てはまらなかったのです。主は「弟子たちによって信仰に至る人々」と祈るが、当の弟子たちが逃げてしまったのです。主のご祈祷ですら、当初は叶わないのです。
しかし主は祈ったのです。祈りとは、結果を求めるものではない、ということが教えられます。神さまが、この弟子たちを何時かは真心に立ち返らせて下さることを信じたのです。弟子たちの歩みは人の歩みでした。弟子たちを通して信仰に入る者も、または絶望する者も、一つに成るときも分裂もしてしまいます。その弟子たちを通して私たちが信仰に導かれた。そう考えると、弟子たちの不十分さすら、神様は用いられたということになります。万事が益となる。
結果を求めず祈り続けること。私たちはその思いの万分の一でも得られないでしょうか。讃美歌510の母の祈りがそうでした。放蕩息子を委ねた母の祈りです。私たちも、祈りは大切にすることは素よりのことです。しかし私の思い、私の祈祷の文言でなく、それを見据え、見越して働く神の御業に信頼したい。主が私たちのために祈って下さっている。そのことは確かです。放蕩な息子、娘である私たちを覚え、主が心を込めて祈る。私たちも他者のため祈りたい。