六日市チャペルの、会員のお宅で取れたという(珍しい)アジサイの花。
水色や藤色のアジサイは馴染み深いですが、こういう鮮やかなのは初めて。
本屋さんの一室を借りて、礼拝をしています。
写真率はどうしても防府が高くなります。
今週、来週の予定は以下の通りです。
どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。
6/27 日曜日 10時45分 徳山C礼拝(中島共生牧師)
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ マルコによる福音書4章35~41節 (新共同訳聖書、新約68ページ)
■ 説教 「向こう岸に渡ろう」
直前の「種のたとえ話」の要点は、「任せる」「委ねる」ことでした。当時、偏見と蔑視の対象だったガリラヤの人々、弟子たちに主は、「あなた方も良い実りを実らせる」と言われました。その前提の中で、直面する出来事の結果を「任せ、委ねつつ」賜物を用いて行くのです。主が中央の車座(4:10)では、うなずき得ます。ところが暴風、類する困難な状況下では、「任せ、委ねる」信仰はどうか。昔を思い、今の私たちを、未来に用いて行きましょう。
出発地をカファルナウム、目的地を「ゲラサ人の地方(5:1)」と定め、出発時刻を夕方としたとき、この船旅は余りにも理不尽なものでした。夕と朝の吹き下ろしの暴風による船旅のリスクは、漁師経験のある弟子たちの心身に刻まれていたことでしょう。出発時に弟子たちは、無言(36)でした。ところが船旅を始めると、暴風が襲います。弟子たちは即座に赤裸々な声を挙げ、主に対処を願うのです。漁師出身の弟子たちも、手が出せません。
主のお言葉は、直接的には「風や湖(39)」に向かいます。その実、本当の意味で騒いでいたのは誰か、何か。風や湖は自然の一風景としての様相を示しただけで、むしろ弟子たちの心こそが大荒れ、大騒ぎだったのです。荒れている人に向かい、「黙れ、沈まれ」とは無意味で、ことによれば逆効果です。ここでの大切な主のお姿は、揺れる船に共に乗り、留まり続けたことにあります。主は絶えず、あなたの心に語り掛け、共に居られる方です。
「向こう岸(35)」を、ガリラヤ湖の地図をもとに考えます。短く見積もっても10キロです。時間帯は夕方でしたので、先が見通せるはずがありません。先が見えない日々、週日を送る比喩と言えます。しかし聖書は、「先が見えず、見通せず」という無い無い尽くしの中、主イエスの臨在を語ります。だからあえて、主は弟子たちを危険な時間帯に旅立たせたのでしょう。「恐れることはない…私はあなたと共にいる神(イザヤ41:10)」の体現として。