6/14(月)朝の徳山の礼拝堂です。
外は曇り、しかし東側に位置している礼拝堂後方のステンドグラスからは、
朝の光が差し込んでいます。
この時期は、聖霊降臨節としての礼拝が行われています。
今週、来週の予定は以下の通りです。
どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。
6/14 月曜日 全国常議員会(ZOOM)
6/15 火曜日 兵庫県牧師会(ZOOM)
6/20 日曜日 10時 徳山C聖書の学び
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ マルコによる福音書4章26~34節 (新共同訳聖書、新約68ページ)
■ 説教 「今は小さな種でも」
主イエスのたとえ話には、主ご自身による解説が付けられているものもあります。一方で今日の箇所は、明確な解説は無く、想像が膨らむ箇所となります。全体としては「神の国」のたとえですが、語られているものが何を表すのかは、読むたびに新たな思いが与えられます。教会が培ってきた聖書読解の伝統の中で、定まった理解はあります。それを踏まえつつも、私たちは今という状況の中で、この話を通して示されることを聞いて行きましょう。
それで「神の国のたとえ」です。これは「み国」ではなく、「神さまのご統治」という意味で、「神さまがこの世をどう見ておられるか」ということです。「蒔く人は神さま、種はみ言葉、土は人の心。育ったみ言葉は、実として他者を満たす源となる」というものです。話を聞くのはガリラヤの人々で、「辺境の人」として、中央から蔑視されていた人々です。主はその人々に、神さまの種を成長させる力があり、他者を満たすという、祝福の約束を語ります。
「からし種のたとえ」は、理解に幅があると思います。種は、「み言葉」というより「主イエス」と理解できます。神の御子でありながらも主は、一人の子としてこの世にお生まれになりました。しかし今は大樹として、大勢の人の拠り所となっています。或いは「私たち」という理解もできます。かつては小さな存在であった私たち、しかし今は、誰かの拠り所となっています。「行い」、何ができるか、ではなく「存在」、そこに居ることが誰かの支えなのです。
しかし時に、「空の鳥」としての私たちも居ます。週日の私たちは、懸命に羽ばたいてこの世を渡りゆくものです。時には逆風、時には風雨で飛ぶこともできない。週の終わりと初めに、主と先人が築いた教会という大樹、主イエスという大木に羽を休め、また羽ばたくものなのです。やがては、大樹となりたい。あるいは、週日は大樹なのかもしれない。必要とされていることを思いつつ、今は小さな種として、主による栄養と支えを頂いて、生きたい。