2/27の防府です。
梅の花は満開。正面が納骨堂で、右手が礼拝堂入口です。
一日前の写真ですが、柳井2/26の礼拝のときのものです。
こちらも典礼色は白。でした。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
3/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/9 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
3/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカによる福音書9:28~36 (新123)
Gospel of Luke 9:28~36
28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、傍に立っている二人の人が見えた。
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その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
■ 説教 「いい加減は良い加減」
聖書のみ言葉の学びは大切です。実際、明治期に、キリスト教の拠点が「教会」つまり「教える会堂」と翻訳されました。しかし元来「教会」とは、「招かれたもの(⇔エクレシア)」との意味です。この招きは、この世のように「特別な資格」のためではありません。むしろ、そのままで招かれます。それは今昔不変です。今日の聖書では、ルカがその筆でペトロの「学び」と主の招きを生き生きと描くのです。そこに私たちは、今の自身の姿を見出したい。
まず、「いい加減」なようですが、主の御前では「学ぶ」よりも「眠くても良い」のです。「変容主日」は、人の子である主が神 (変容)であることを覚える日です。教会暦では、来週から「四旬節」、「栄光から苦難」の境目とも言えます。その時に、ルカはペトロに関することを2つ、記します。1つは「ペトロと仲間(32節)」は「ひどく眠かったが、こらえていた」と、主の変容には関りないことを記すのです。あえて言えば、疲れる時もある、ということです。
そして「学び」が「間違ってもよい」。二つ目、ペトロの進言(33節)。「仮小屋を建てましょう」の彼の言葉は、的を射たものでした。「仮小屋」は「粗末な家」でなく、「荒野の40年」の際に定められた(レビ23章)、礼拝の建物です。しかしルカは「(ペトロが)自分では何を言っているか不明だ」と記します。ここのペトロには、神礼拝の思い。しかし主の真意は、崇敬対象でなく受苦。ルカは、主の近くにいたペトロもは、主の意を誤解したというのです。
ルカは「ペトロは眠かった/場違いなことを言っている」と、主の変容というテーマの中に、そのような人の姿を記します。ここで特に覚えたいことは、ペトロも主と共に、伝説では標高575Mのタボル山に登ったことです。「非日常」の動きに、ペトロたちは疲れていたのです。私たちの日常は、大枠(マクロ)ではサイクル。しかし個々の出来事(ミクロ)は「非日常」「登山」です。日々、未知に直面する私たちに、主がこの場「教会」を開いています。