2/22 朝の徳山チャペル礼拝堂です。
東からの光がステンドグラスを通して、見える形になっています。
今年は良く、咲きました。
前日、県外の方からの献花の申し入れがありました。
2/19 柳井チャペル「一粒の麦」喫茶室です。
献花は、喫茶室の分もありました。感謝です。
そして2/16の六日市の空。
未だ週報を用いた家庭礼拝です。
今週、来週の予定は以下の通りです。
2/21-22 月曜日-火曜日 全国常議員会 於:ZOOM(テレビ電話会議システム)
2/23 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
2/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/2 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
3/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカによる福音書6:27~38 (新113)
Gospel of Luke 6:27~38
27「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
■ 説教 「恵み深い神を知る」
主イエスの時代の聖書とは、今の旧約聖書でした。そもそも旧約聖書も、多様な時代や筆者によって書かれましたので、「神さま」の書かれ方も異なります。また、同書同節の中ですら、「憐れみ深く、恵みに富む」と書かれた直後に、「罰を下し、父祖の罪を子に問う(出エジ34:9)」と、前後矛盾する内容が書かれています。根底には「愛」ですが、愛の表現は「妬むほど」なのです。そのような「熱情」の姿とは異なる神さまを、主は語ります。
聖書は有名な「愛敵の教え」他です。控えめに言えば、「眺めるだけ」の教えでしょう。それこそ旧約聖書には「同害報復法(出エジ24:21)」、これも今日的は極例ですし、主のみ教えはそれに輪をかけて困難なものです。裁判(公的な裁き)自体は、古くは士師(士師記)、主の時代はローマ総督や地元の会堂が担いました。また呪い(私的な裁き)については、詩編がその多くを載せています。裁きの禁止は、心にフタがされるようなものです。
旧約が「公的/私的」な裁きを公言する以上、主の「裁きの禁止」には、意図があります。「主のみ言葉を眺める」ことを通し、「神のみ姿に思いを至らせる」ものです。具体的には「神は忘恩者にも悪人にも情け深い」の言葉への注視です。それは、旧約の元来の教え(アダムとイブ)であり、「神さまは厳しい」としていた当時はあり得ない言葉でした。規則のように「愛敵の教え」を受取れば、信仰の袋小路に迷うのは必至です。それは、避けたい。
「神の情け深さ」は、ここで実感できると思います。私たちは「愛敵」と聞いた時、自分の心身を痛めた「敵」を思います。けれど私たちは同時に、意図せずとも、誰かにとっては「敵」との側面をも持つのでしょう。時に被害者で、時に加害者な私たちが今日も、御前に立っています。赦す私の姿ではなく、赦しの神の姿に思いを馳せましょう。「他者を赦せない」という自身の限界を主の御前に告白しましょう。そして、日々を生きていきましょう。