2/15(火)朝の礼拝堂です。
電気をつけた状況も良いのですが、無灯火でのステンドグラス、も良いのです。
2/13(日)の防府の礼拝堂。水仙が良い香りを放っています。
I've god a handmade bread from English teacher in Hofu.
たぶん、椿なのだと思います。こちらも素晴らしいものです。
今週の予定は以下の通りです。
2/16 水曜日 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝
2/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
2/21-22 月曜日-火曜日 全国常議員会 於:ZOOM(テレビ電話会議システム)
2/23 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
2/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカによる福音書6:17~26 (新112)
Gospel of Luke 6:17~26
17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を癒して頂くために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々も癒して頂いた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである。
20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。21今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。
この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
■ 説教 「幸いなるかな、貧しい人」
主が漁師たちを弟子にした直前に起きていたことは、「不漁」と、派生する「心配」でした。日課で言い換えれば、漁師たちは家族への責任も思い、「貧しく、飢え、泣く」のです。主はその漁師たちに近づき、弟子とし、豊かさの一端「満たしと笑い」を示されたのです。私たちの、主とのかつての出会いにも、同様のことが起きたと思えます。主は12人の弟子たちに、誰もが「幸いの器」と、「貧しさの器」と言うのです。意味を聞きたいと思います。
主のみ教えが「山上(マタイ)」か「平地(ルカ)」か。今日、真相は分かりませんが、それぞれに力点があります。「山」とは、旧約では神さまとの出会いの場(アブラハム、モーセ)です。マタイはその伝統を踏まえ、主のみ教えが弟子たちに与えられたこと。ルカは、主のみ教えが「平地」の人々に伝えられ、及んだことを記すのです。ただ、「平地」とは、不適当な表現と言えます。この世には、比ゆとしての「平らな土地」だけではなく、難所もあるからです。
いみじくもルカ福音書がイザヤ書を用いて3章で語る「山あり、谷あり」、漁師の弟子たちが体感した「不漁と豊漁」のこと。主は、以前でもここでも、「豊かな時、貧しい時」「平穏な時、困難な時」が、一人の人の上に降ることを告げているのです。「豊かで平穏」が続くとき、主は「不幸だ」と言われます。すでに慰めを受けているからと言います。そのような時があったとしても、「キリストが私を通して働かれた(ローマ15:18)」と思いたいのです。
それで、問題は「谷や難所、不漁」に類する時です。福音書が告げることは、谷や難所を歩むものと共にある主、それらがやがて整えられることです。何よりも、主と出会う直前の私たちは、先の「谷や難所、不漁」を体感する中で、「豊かさや平穏」を求める者だったと思えます。そこに主が関わって下さったのです。だから、今は平穏、穏やかならば、そこにある支えを覚えたい。今後、そのような難所に向かうときには、そこにある導きを覚えたい。