2022年2月15日火曜日

2/12.13 礼拝堂 礼拝前と朝

 

 2/15(火)朝の礼拝堂です。

 電気をつけた状況も良いのですが、無灯火でのステンドグラス、も良いのです。

 2/13(日)の防府の礼拝堂。

 水仙が良い香りを放っています。

 I've god a handmade bread from English teacher in Hofu.

そして、2/12(土)の柳井。

たぶん、椿なのだと思います。こちらも素晴らしいものです。

今週の予定は以下の通りです。

2/16 水曜日 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝

2/19  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/20  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

2/21-22 月曜日-火曜日 全国常議員会 於:ZOOM(テレビ電話会議システム)

2/23 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

2/26  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/27  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ルカによる福音書6:1726 (112)

   Gospel of Luke 6:1726

17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を癒して頂くために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々も癒して頂いた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである。

20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は、幸いである、

神の国はあなたがたのものである。

21今飢えている人々は、幸いである、

あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである、

あなたがたは笑うようになる。

22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。

この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。

25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。

今笑っている人々は、不幸である、

あなたがたは悲しみ泣くようになる。

26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 説教             「幸いなるかな、貧しい人」 

主が漁師たちを弟子にした直前に起きていたことは、「不漁」と、派生する「心配」でした。日課で言い換えれば、漁師たちは家族への責任も思い、「貧しく、飢え、泣く」のです。主はその漁師たちに近づき、弟子とし、豊かさの一端「満たしと笑い」を示されたのです。私たちの、主とのかつての出会いにも、同様のことが起きたと思えます。主は12人の弟子たちに、誰もが「幸いの器」と、「貧しさの器」と言うのです。意味を聞きたいと思います。

 

主のみ教えが「山上(マタイ)」か「平地(ルカ)」か。今日、真相は分かりませんが、それぞれに力点があります。「山」とは、旧約では神さまとの出会いの場(アブラハム、モーセ)です。マタイはその伝統を踏まえ、主のみ教えが弟子たちに与えられたこと。ルカは、主のみ教えが「平地」の人々に伝えられ、及んだことを記すのです。ただ、「平地」とは、不適当な表現と言えます。この世には、比ゆとしての「平らな土地」だけではなく、難所もあるからです。

 

いみじくもルカ福音書がイザヤ書を用いて3章で語る「山あり、谷あり」、漁師の弟子たちが体感した「不漁と豊漁」のこと。主は、以前でもここでも、「豊かな時、貧しい時」「平穏な時、困難な時」が、一人の人の上に降ることを告げているのです。「豊かで平穏」が続くとき、主は「不幸だ」と言われます。すでに慰めを受けているからと言います。そのような時があったとしても、「キリストが私を通して働かれた(ローマ1518)」と思いたいのです。

 

それで、問題は「谷や難所、不漁」に類する時です。福音書が告げることは、谷や難所を歩むものと共にある主、それらがやがて整えられることです。何よりも、主と出会う直前の私たちは、先の「谷や難所、不漁」を体感する中で、「豊かさや平穏」を求める者だったと思えます。そこに主が関わって下さったのです。だから、今は平穏、穏やかならば、そこにある支えを覚えたい。今後、そのような難所に向かうときには、そこにある導きを覚えたい。