気が付けば、一月がもう終わり、だということがわかりました。
あともう一つ分かるのは、献花がカーネーションだということ。
左にはかわいらしいピンクの花。名前は…なんでしょう。
1/30(日)防府の礼拝堂です。梅の花が、咲きました。
山口県では、「まん延防止等重点措置」が、県中東部の市町に2/20まで出されています。
島根県でも同様に発令されています。
週報などで家庭礼拝をご希望の方は、ご連絡を頂ければ発送いたします。
今週の予定は以下の通りです。
2/2 水曜日 六日市チャペル礼拝
2/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
2/9 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
2/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカによる福音書4:21~30 (新108)
Gospel of Luke 4:21-30
21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
■ 説教 「居場所のある喜び」
「居場所」という「心地よさ」を見出しうる場所があります。です。「家や職場」等の物理的なもの、「家族や(教会の)友」などの人間関係上のものが例でしょう。それらは、神さまからの「賜物(ギフト)」と言えます。神さまが、私たちの人生の端々をご覧になり、現れ、御子を与え、御子を通し教会や個々の場所を与えて下さったのです。実は、それを給う主の幼少期は「居場所のない」もので、後半生は「居場所を求める人々を支える」ものでした。
主は、幼少期はエジプトに逃げざるを得なかったことはルカ2章の通りです。その後、父の故郷であるナザレに戻られた主は、少なくとも幼年期は「都参りをする」家族や仲間がいました。ただ、仕事を始めた主は、大工の眼で「世の現実」や、「建前と現実」を見る機会に多く出会ったと言えます。特に主の目は、神を語る宗教者と、宗教者によって破綻を余儀なくされた方々に注がれたと言えます。主の思いは、「居場所が無い」人に向くのです。
「この聖書(21)」とは、「イザヤ61章」であり、回復と癒しを告げる預言です。ところが、ナザレの人々はこの主の言葉を受け入れないのです。「ヨセフの子 (22)」とは、言葉通り、小せがれとの意味です。「ナザレ」の人々は、自分たちの世界で自己完結をしていた。世間が不条理に満ちていることは、知ってはいたでしょう。ただ、見ずに目を背け、「あの」イエスがそれを告げることが癪に触ったのです。その結果主を危険な目に合わせるのです。
主はこの出来事を通して、あえて安住の家を出ます。また母や兄弟とも離れるのです。物理的、人間関係的な居場所を自ら手放し、むしろこの世で「居場所」を求める人々の傍にいるべく、道を歩まれるのです。その主は、ベツレヘムにもナザレにも、遂にはエルサレムに赴かれ、死なれるのです。けれど復活を成さり、「私たちの居場所」としての教会の礎となられたのです。周囲に目を向けると、居場所を必要とする方々がおられます。覚えたい。