1/23(日)防府の礼拝堂外の梅のつぼみです。また少し、膨らみました。
東風吹かば 匂い起こせよ 菅原公(違いますね)
1/23(日)同じく防府。水仙がよく香ります。1/25(火)これは徳山の牧師室。
冬のポインセチアがここで温まっています。
山口県では、「まん延防止等重点措置」が、県東部の市町に1/31まで出されています。
週報などで家庭礼拝をご希望の方は、ご連絡を頂ければ発送いたします。
今週の予定は以下の通りです。
1/26 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
1/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
2/2 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
2/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカ福音書4:14~21 (新107)
4:14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目が
イエスに注がれていた。そこでイエスは、
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが
耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
■ 説教 「ストレスからの自由」
今日の聖書で主は、イザヤ書61章を朗読(18)されました。イザヤ書には3人の著者がいるとされ、特にこの61章は、3人目の著者が「荒廃した国土に生きる人々に希望を語る」ものでした。主は、ナザレで公生涯の始めにこのみ言葉を朗読するよう選ばれました。それは、神さまが主に、「希望を必要とする人々を支える」ことを託したと言えます。時代を下って今の社会、このみ言葉の「圧迫(18)」が、私たちの周囲に確かにあると言えます。
創世記の「楽園追放」以降、人は絶えずこの「圧迫」と重なる生を送っていました。先のイザヤ61章は、「バビロン捕囚」から帰国した人々への言葉でした。内容は「捕われ、圧迫されている」人々に、神が救い主を遣わすというものです。主が育たれたナザレの町は、荒廃こそしていませんでしたが、度々触れる「二重支配」の中にありました。ルカ福音書にも登場する「徴税人、兵士、ファリサイ派」等からの圧迫が悩みと困難の一つだったのです。
私たちや、近しい人も無縁でいられない「圧迫(18)」には、二通りの意味があります。物理的、あるいは心理的なものです。新共同訳聖書の翻訳では「ストレスを抱えた」と見なせます。加えての意味は、何かの人や事柄によって「傷ついた」「砕かれた」とも訳せるのです。「圧迫」とは、一つの意味に規定できない、種々のことを含むのです。ナザレの人を前に、そして私たちを前に主は「自由」を告げ、「み言葉が実現した(21)」と結ぶのです。
「実現」の「自由(18)」とはどういうことか。「圧迫」の事柄は残りますが、それに心を捕われなくなる、との主の約束です。このみ言葉はナザレの人々には届きません。日課の続きには、主のみ言葉に公然と反発する人々の姿、果てには、崖から突き落とされそうになる主の姿があります。私たちにとっても、次々と形を変えて現れる出来事には、心を折られそうになります。夜ごと、日ごとにこのみ言葉を思い、主のみ助けを祈るものでありたい。