2022年1月18日火曜日

1/15.16 春のたよりと礼拝堂

 1/15(土)柳井の礼拝堂。献花は菜の花です。

 春の便りその1となります。


 1/16(日)防府の礼拝堂。手前は梅の花です。

つぼみが膨らみ始めています。少し早い、春のたよりです。

 

山口県では、「まん延防止等重点措置」が、県東部の市町に1/31まで出されています。

週報などで家庭礼拝をご希望の方は、ご連絡を頂ければ発送いたします。

今週の予定は以下の通りです。


1/19 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

1/22  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/23  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

1/26 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

1/29  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/30  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ヨハネによる福音書2: 111 (165)

1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 

7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 説教             「いくら飲んでも大丈夫」 

「カナの婚礼」で主が作られたぶどう酒は、2-3メトレテスが6つという量。これは、今の単位では600㍑。ワイン瓶では800本になります。婚礼は当時三日三晩に渡り繰り広げられるものでした。主の時代のぶどう酒は、度数は高く、水で割って飲んでいたようです。主がその状態のものを作られたのなら、婚礼客で飲み干すのは到底できなかったことでしょう。つまり、「主の恵みは、2000年前では終わらない」という結論が導かれるのです。

 

聖書は「三日目に」と書き出します。ヨハネ福音書は、旧約聖書の創世記の冒頭部分の骨子を模倣している書物です。ヨハネ福音書の冒頭から日数を数えると、カナの婚礼は6日目。創世記の天地創造の六日目は「人類創造」。つまりヨハネ福音書は、「ぶどう酒不足」を通し「神さまの創造された人間の歩みに完璧はない」との、創世記記述を焼き直します。でも「不足、不意」に見舞われる時に、主イエスの積極的な介入を告げるのです。

 

注意したいのは「たかがぶどう酒」ではないことです。世話係には「式が台無し」「失態」「神への冒涜」という、胃が痛くなる以上の事態なのです。客観的には「不意の欠乏、出来事」という事態ですが、主観者である当人には深刻この上ない事態。世話係は主の母に「御心に委ねる」思いを示すのです。必要なものはぶどう酒でしたが、与えられたものは「良質のぶどう酒」だったのです。「求める以上のものが与えられた」ことに期待したい。

 

ただ、話はここで終わりません。そもそもこの「水がめ」は「清めの水がめ」でした。選民思想が強いユダヤの人々にとって「水がめ」は大切なもの。それを主はすべて「ぶどう酒」に、しかも飲みきれない程の量に替えられたのです。ここにも私たちは、希望を置いて良いと思います。主の恵みに預かり得ない人は、誰もいないことの比喩です。だから私たちは、今日いない、友や家族をも覚えて「祈る」のです。知らないところで、主が働くのです。